光と風のなかへ & 追憶の鉄路

キューロクの日に






きょうは9月6日は キューロクの日

蒸気を追いかけていたかつての少年たちのブログでは

いまごろ想い出のキューロクたちが走り廻っているころだろう

されど多くは北や南のキューロクたちではないだろうか

そこでこのブログでは大宮にいたキューロクをよみがえらせよう

とはいえ 大宮機関区を訪れた時は 中学1年生

カメラも小型のフジカハーフ  しかも雨だった

このためまともな写真は一枚も撮れなかったが

たくさんの蒸気に囲まれて気分は最高だった



蒸気機関車9600 大宮機関区



そしてここでのキューロクの出会いから 蒸気を追いかける旅がはしまった

その一人旅は どれほど自分を成長させたか

観光地や名所には目もくれず ひたすら村里や山野を歩きまわった日々

求めていたのは 人々の暮らしを支えた鉄道

だからこそ 多くの人々の優しさに会えた

駅にも泊めてくれた 機関車にも乗せてくれた

暑い夏 農家のおばちゃんがくれた採れたてのスイカのうまかったこと

鉄道弘済会のおばちゃんは お土産だよと言って そっと売り物を手渡してくれた

蒸気とすごした7年間 そのどれもが大切な宝物だ



大宮機関区 9600
1968年(昭和43)10月4日
フジカハーフ 22.5ミリ f2.8
ネオパンSS


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  1. 2017/09/06(水) 00:11:13|
  2. 追憶の鉄路 9600
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さらば 増毛の鉄路






大正10年(1921)に開通してから95年

きょうまでどれだけの人々の想いを乗せて走り続けてきたのだろう

JR北海道の留萌線 留萌-増毛(16.7キロ) 最終運行日




.留萌本線 増毛




1日1キロ当たりの利用者は 1987年度は480人

それが2014年度は39人 

100円の営業収益を得るのに4161円かかる

町の人口は最盛期の1/4 4500人余に減少し

高校も5年前に閉校となった




.留萌本線 増毛




だから廃止する というのだが

地域の「交通権」を確保するのは 鉄道会社の責務だ

バスでも同じだという意見もあるが 運賃は確実に跳ね上がる

学生やお年寄り 交通弱者への負担はさらに厳しいものになるだろう




.留萌本線 増毛




あいつぐ赤字ローカル線の廃止によって

北海道の交通網は もうズタズタだ

それなのに 無用の新幹線の建設に資金を投入していく

そしてさらなる赤字ローカル線の廃止に突き進む




.留萌本線 増毛




そもそも広大な大地をかかえ 苛酷な自然環境のなかを走る北海道の鉄道は

日本のどの鉄道会社よりも 莫大な維持費がかかる

そのうえエネルギー転換にともなう炭坑閉鎖 それにともなう人口流失

北海道の鉄道を民営化すれば どうなるか はじめからわかっていたはずだ




.留萌本線 増毛




国鉄の民営化がもたらした大きな負の遺産

せめて上下分離方式にして 政策を誤った国が責任を見るべきだろう




.留萌本線 増毛




都会と地方の生活に大きな格差がある

そんないびつな社会は いつか破綻する




CANON FT
留萌本線 増毛
1974年(昭和49)4月1日 撮影


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  1. 2016/12/04(日) 00:05:00|
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カラーでよみがえる蒸気の時代 21






9月6日は「キューロクの日」

今年は煙仲間の記念日に遅れてしまったが

八高線の高麗川駅にたたずむ大宮のキューロクをカラーに変換




蒸気機関車 八高線




47年前は 東京の近くにも まだ蒸気機関車が活躍していた



1969年(昭和44)5月頃
フジカハーフ
ネオパンSSをカラーに変換

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  1. 2016/09/07(水) 23:25:49|
  2. 追憶の鉄路 9600
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カラーでよみがえる蒸気の時代 02






前回 紹介したモノクロ写真をカラーに変換するソフト




蒸気機関車 9600 湧網線




再現性という点では まだまだ未完成だが

ネガによっては びっくりするような写真が出てくる

フォトショップで若干補正したとはいえ

ここまで再現できたら 十分かな




蒸気機関車 湧網線の9600




あの日 北の大地で見た風景が

いま鮮やかによみがえる




湧網線 計呂地
1974年(昭和49)3月28日

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  1. 2016/06/29(水) 01:31:40|
  2. 追憶の鉄路 9600
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カラーでよみがえる蒸気の時代 01






これまでモノクロ写真をカラー化するには 熟練のワザが必要だった

それが早稲田大学の開発した人工知能の技術を使うと

なんと 誰でも簡単にカラー化できるという

それが本当なら 10代の頃に見た風景が カラーでよみがえる

tameraさんや枯れ鉄さんも紹介していたので さっそく試してみた

http://attech.info/news-colorization/



蒸気機関車 後藤寺線の9600

蒸気機関車 田川線の9600

蒸気機関車 幌内線の9600




カラー写真というよりも 明治の着色写真に近いものあるが

ネガの調子がよければ 比較的きれいにカラーを再現できる




蒸気機関車 北海道炭礦汽船真谷地炭鉱専用鉄道の9600




ただ全体的には開発途中なのだろう

部分的に赤や黄色に変換されてしまうことも多く

自然な色あいを再現するには もう少し時間がかかりそうだ




蒸気機関車 八高線の9600

蒸気機関車 幌内線の9600

蒸気機関車 名寄本線の9600

蒸気機関車 伊田線の9600




それでもこの写真を元にフォトショップでレタッチすれば

比較的手軽にカラー写真にして楽しめるかもしれない




蒸気機関車 田川線の9600




それにしても 40年以上も昔の風景が カラーでよみがえるとは

なんとも すごい時代になったものだ

これから少しずつ試してみるかな




9600
名寄本線 幌内線
八高線
後藤寺線 田川線 伊田線
1969年~1974年 撮影

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  1. 2016/06/27(月) 00:13:40|
  2. 追憶の鉄路 9600
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追憶の鉄路 特別編 最後の汽笛






日本で最初に蒸気機関車が走ったのは

1854年(嘉永7)1月

ペリーが二度目に来航したときだった 

このときペリーは アメリカの技術力を誇示するために

たくさんの献上品を持参したが そのなかに

機関車と炭水車 客車 そしてレール一式があった

そのときの様子を 『ペルリ提督 日本遠征記』は こう記している


機関車と客車と炭水車とをつけた汽車も…(中略)…

彼等の興味をそそったのである

その装置は……非常に小さいので

六歳の子供でもやっと運び得るだけであった

けれども日本人は それに乗らないと承知できなかった

そして車の中に入ることができないので屋根の上に乗った

円を描いた軌道の上を一時間二十マイル哩の速力で

真面目くさった一人の役人が その寛かな衣服を風にひらひらさせながら

ぐるぐる廻はっているのを見るのは 少からず滑稽な光景であった

彼は烈しい好奇心で 歯をむいて笑ひながら

屋根の端しに必死にしがみついていた


それから18年後の1872年(明治5)  鉄道開業にともなって

10両の蒸気機関車がイギリスから輸入されて日本の大地を走った

国産の蒸気機関車が誕生したのは 1893年(明治26)

その技術は やがて本格的な貨物用機関車 9600を誕生させていく

その記念すべき1号機は 1913年(大正2)川崎製造所で生まれた




蒸気機関車 9600 梅小路機関区

梅小路蒸気機関車館 1974年(昭和49)



それからというもの キューロクの愛称で呼ばれたこの機関車は

貨物だけではなく 客車も牽引して 日本列島を走り続けた




蒸気機関車 9600 後藤寺線

後藤寺線 後藤寺-船尾 1974年(昭和49)晩秋



北は北海道から 南は九州まで 全国各地で活躍したキューロクは

いつしかふるさとの風景にとけこんで 日本を代表する蒸気機関車となった




蒸気機関車 9600 湧網線

湧網線 計呂地 1974年(昭和49)3月28日



ぼくが小学生のとき はじめて撮影した蒸気機関車も キューロクだった

中学生になって訪れた大宮機関区では 雨に濡れたキューロクが待っていた




蒸気機関車 9600 大宮機関区

大宮機関区 1968年(昭和43)10月4日



日曜日になるとよく通った東京近郊の八高線

ここもキューロクの仕事場だった




蒸気機関車 9600 八高線

八高線 金子駅 1281レ 1969年(昭和44)4月1日



川越線では 長い客車をしたがえて

朝の通勤客を運ぶのがキューロクの日課だった




蒸気機関車 9600 川越線

川越線川越駅 1969年(昭和44)



何度も一人で旅した九州 そして東北 北海道




蒸気機関車 9600 筑豊本線

筑豊本線 中間付近 1969年(昭和44)8月



そこには いつも キューロクがいた




蒸気機関車 9600 伊田駅

田川線 伊田駅 1974年(昭和49)12月2日



何でも牽いて ふるさとの野山を駆けたキューロク

デゴイチの補機を務めたり 入れ替え作業もしっかりこなした




蒸気機関車 9600 真谷地炭礦専用鉄道

北海道炭礦汽船真谷地炭鉱専用鉄道 沼の沢 1974年(昭和49)3月27日



そのためか 蒸気機関車のなかでは

どちらかといえば地味な機関車だったかもしれない




蒸気機関車 9600 宗谷本線抜海駅

宗谷本線 抜海駅 1974年(昭和49)3月25日



けれども 猛暑の夏の日も 雨風の吹く厳しい日も

そして 凍えるような寒さのなかでも

ただ もくもくと仕事をこなすキューロクが好きだった 




蒸気機関車 9600 米坂線

米坂線 宇津峠 1971年(昭和46)1月6日



そのキューロクが追分機関区で最後の仕事を終えたのが

いまから40年前の今日 1976年(昭和51年)3月2日のことだ




蒸気機関車 9600 田川線

田川線 油須原~勾金 1974年(昭和49)



すでに定期列車の仕業を終えていた蒸気機関車にとって

この入れ替え作業が 最後に残された唯一の仕事だった

そしてこの日 その作業も終えて 日本の蒸気機関車の歴史に幕がおりた




蒸気機関車 9600 伊田線

伊田線 伊田~糒 1974年(昭和49)12月2日



あのころ 誰が想像できただろか

国鉄最後の蒸気機関車が 大正生まれのキューロクになることを




蒸気機関車 9600 倶知安

函館本線 倶知安駅 1971年(昭和46)3月下旬



最後まで生き残った機関車は 39679、49648、79602 の3両だった




蒸気機関車 9600 幌内線

幌内線 幌内駅 1974年(昭和49)3月29日




その後 蒸気機関車はイベント列車として復活をはたす

いまや世代を超えて どこでも人気者だ




蒸気機関車 9600 幌内線

幌内線 三笠~幌内 1974年(昭和49)3月29日



しかしキューロクは いまだに眠りについたままだ




蒸気機関車 9600 幌内線

幌内線 幌内駅 1974年(昭和49)3月29日



キューロクよ いま一度 眼を覚ませ




蒸気機関車 9600 伊田駅

田川線伊田駅 1974年(昭和49)12月2日



きみが走る姿を みんなが待っている





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  1. 2016/03/02(水) 21:29:03|
  2. 追憶の鉄路 9600
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追憶の鉄路 特別編 時が止まっ日






1975年(昭和50)12月24日21時10分 夕張

明治の開業以来 日本中を走りまわってきた蒸気機関車が

最後の貨物列車を牽引して長い汽笛とともに発車した

列車番号6788レ 牽引機 D51 241

それは蒸気を追いかけてきた多くの若者たちの

青春の輝きが燃え尽きた時でもあった


思い起こせば 蒸気を追いかけはじめたのは中学1年のときだった

大宮機関区を起点に 佐倉機関区 八高線 川越線 総武本線をへて

中学2年の夏休みには単身で九州に ついで真冬の北海道に渡った

それからというもの 学校が休みの間は いつも蒸気と共にいた

授業中も ノートの片隅に次の撮影プランを綴っていた

終業式が終わると すぐにアルミのカメラバックとショイコを背負い

三脚をかかえて蒸気機関車を追いかけて北へ南へ

安い周遊券を買い 宿泊はいつも駅の待合室か夜行列車

若さゆえに出来た 無謀な旅だった

そのなかで出会った素晴らしき蒸気機関車たち


C62の重連で北の大地を驀進する急行「ニセコ」

その勇姿を求めて 何度 北の大地に渡っただろうか

「ニセコ」とともに過ごした日々 それはぼくの青春だった



蒸気機関車 函館本線

函館本線 急行「ニセコ」3号 103レ 1971年(昭和46)3月25日 撮影



たちのぼる煙 山々に響くドラフト

キューロクがいた冬の常紋は ぼくらの心を惹きつけて離さなかった




蒸気機関車 石北本線

石北本線 金華~常紋信号所 1970年(昭和45)12月28日 撮影




機関車中心の構図に変化が生まれたのはいつからだろう

日常のなかの鉄道 それがいつしかぼくの大切なテーマになってたいた




蒸気機関車 留萌本線

留萌本線 増毛 1974年(昭和49)4月1日 撮影



美利河 と書いて ピリカとよむ

その美しい響きに誘われて降り立った 春まだ遠き北の大地




蒸気機関車 瀬棚線

瀬棚線 美利河~花石 1974年(昭和49)3月21日 撮影



海からの風を受けながら ただひたすら汽車がくるのを待った五能線の冬

その寒さは厳冬期の北海道よりも厳しかった




蒸気機関車 五能線

五能線 1971年(昭和46)1月5日 撮影



汽笛も凍る吹雪の花輪線 龍が森の冬

機材も腕も未熟だった中学生には 三重連はうまく撮れなかった




蒸気機関車 花輪線

花輪線 龍が森 1970年(昭和45)12月下旬 撮影



だから 翌年の秋 もう一度 彼らに会いに行った




蒸気機関車 花輪線

花輪線 龍ヶ森 1971年(昭和46)9月24日 撮影




豪雪地帯を走る米坂線は猛吹雪

雪だるまになって汽車が来るのを待った




蒸気機関車 米坂線

米坂線 宇津峠 1971年(昭和46)1月6日 撮影




秋色に染まった山々

その間をぬうように汽車がゆく 会津の秋 日本の秋




蒸気機関車 会津線

会津線 会津宮下~早戸 1973年(昭和48)11月7日 撮影




日曜日になるたびに通った八高線

そこはぼくのカメラの修行の場でもあった




蒸気機関車 八高線

八高線 金子~東飯能 1969年 撮影



小淵沢の大カーブをゆっくり登ってきた高原のポニー

彼らに会いに何度 新宿からの夜行列車に乗っただろうか




蒸気機関車 小海線

小海線 小淵沢~甲斐小泉 1972年(昭和47)5月7日 撮影





美しい瀬戸内海の海をながめがら汽車を待った日

まさかこの沿線が30年後に大切な仕事場になるとは

10代の頃はは思いもつかなかった




蒸気機関車 呉線

呉線 安芸川尻~仁方 1969年(昭和44)夏 撮影



はじめての九州 そこはまだ煙が何本もたちのぼる蒸気天国だった

ぼくは父に借りたカメラで夢中で写真を撮りまくった




蒸気機関車 若松機関区

若松機関区 1969年(昭和44)8月 撮影



雄大な大畑ループを 補機の力をかりながら一歩一歩

大地を踏み固めるようにのぼってきた蒸気機関車たち




蒸気機関車 肥薩線

肥薩線 大畑~矢岳 1970年(昭和45)夏 撮影



渾身の力をふりしぼって峠にのぞむその姿は

いつも心の支えだった


彼らが現役から退いて きょうで40年

銀箱をかついでいたスリムな少年も

いつのまにかおなかが出たおじさんになってしまった

それでも彼らたちは いまも心のなかで走り続けている 

すばらしき蒸気機関車たち


最終列車の見送りは 行くか行くまいか ぎりぎりまで迷った

おそらくたいへんな人出だ 静かに想い出にひたる余韻などないだろう

なにより最後の汽笛を聞くことが とてもつらかった

そんな複雑な想いから 海を渡らなかった 

蒸気の時代が終わることを認めたくなかったのだろう

だから最後の汽車の写真はない

ぼくにとって北の大地を走る最後の機関車は

留萌本線のD61となった




蒸気機関車 留萌本線

D61 4 留萌本線 峠下~恵比島 1974年(昭和49)4月1日 撮影



そのかわりぼくが撮影してきた数多くの写真のなかから

集大成ともいうべき一枚を紹介しよう


田川線伊田駅で停車中の29692のキャブで

業務日誌を記録する機関士を写した一枚だ




蒸気機関車 田川線

田川線 伊田駅 1974年(昭和49)12月2日 撮影



ぼくらの青春が輝けたのも 鉄道を動かし守ってきた

たくさんの機関士をはじめ 国鉄職員がいたからだ

このあたり前のことに気がついてからは

機関士や駅員を意識して撮影してきた


蒸気が牽引する最後の列車が走った40年後の今日

あらためて当時 お世話になった国鉄職員のおじさんたちに

感謝の気持ちを込めて この一枚を送りたい






谷村新司 「花束 -最後の汽笛-」  汽笛が鳴ったあとにも歌は続きます



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  1. 2015/12/24(木) 21:10:00|
  2. 追憶の鉄路 9600
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