光と風のなかへ&追憶の鉄路

沖縄戦「慰霊の日」  追記 平和の詩「生きる」 






73年目の沖縄戦「慰霊の日」

23日は沖縄戦の司令官であった牛島中将の自決の日とされ

これを沖縄戦の組織的な戦闘が終わった日とみて「慰霊の日」とされている

しかし このブログで何度も書いてきたように

牛島中将自決の日は23日ではない

米軍の記録や大本営の記録では22日だ

沖縄での組織的な戦闘が終わった日も 米軍の認識では21日だ

http://makobei2008.blog82.fc2.com/blog-entry-2650.html

そんななか報道のなかには 今年 小さな変化も生まれている

琉球新報が23日となった由来を詳しく記事にし

朝日新聞も 自決日は6月22日の説もあることを指摘したうえで

それ以降も散発的な戦闘が続いていることを明記している

昨年刊行された『沖縄県史 沖縄戦』において

22日説が明記されたことも影響しているのだろう

大切なことは 6月23日をすぎても散発的とはいえ 戦いが続いたことだ

もっとも日にちはともかく 「慰霊の日」の存在によって

本土の人間が沖縄戦の存在を認識してくれれば意味はある

しかし 沖縄ではひとあし先に戦争が終わってしまったんだと誤解されては困る

また 組織的な戦闘は終わったことは 米軍による統治がはじまったことを意味する

そのことがいまの沖縄問題に直結していることを認識する必要がある

報道機関はこうした点を考慮して記事にしてほしい



荒崎海岸

6月 18 日の学徒解散後 多くの女子生徒たちが米軍から逃れるために向かった荒崎海岸 沖縄の南端は沖縄戦の終焉の地となった


一方で 沖縄戦において朝鮮から強制的に連行された犠牲となった

朝鮮人軍夫や「慰安婦」たちの存在も忘れてはならない

沖縄戦そのものが本土防衛・天皇制維持のための捨て石作戦であり

はじめから沖縄県民の安全など考えられてはいなかった

このため消耗品として奴隷のような存在であった朝鮮人軍夫や「慰安婦」にいたっては

その数さえはっきりせず 「平和の礎」に刻まれた朝鮮人は 2018年6月1日現在で

大韓民国380人 朝鮮民主主義人民共和国82人 計462人にすぎない

那覇にある韓国人慰霊塔には動員数1万余名と記されており その差はあまりに大きい

このため今も遺族による刻銘希望手続きがおこなわれている

日本人だけではなく 植民地の人々も連行され犠牲となった沖縄戦

「慰霊の日」にもう一度 植民地の人々の存在にも関心をもってもらいたい



沖縄戦

『沖縄県史 各論編6 沖縄戦』より転載



沖縄全戦没者追悼式式典

平和の詩 「生きる」  港川中学校3年 相良倫子


私は 生きている

マントルの熱を伝える大地を踏みしめ 心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け

草の匂いを鼻腔に感じ 遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて

私は今 生きている

私の生きるこの島は 何と美しい島だろう

青く輝く海 岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波

ヤギの嘶き 小川のせせらぎ 畑に続く小道 萌え出づる山の緑

優しい三線の響き 照りつける太陽の光

私はなんと美しい島に 生まれ育ったのだろう

ありったけの私の感覚器で 感受性で 島を感じる

心がじわりと熱くなる

私はこの瞬間を 生きている

この瞬間の素晴らしさが この瞬間の愛おしさが

今という安らぎとなり 私の中に広がりゆく

たまらなくこみ上げるこの気持ちを どう表現しよう

大切な今よ かけがえのない今よ 私の生きるこの 今よ

73年前 私の愛する島が死の島と化したあの日

小鳥のさえずりは 恐怖の悲鳴と変わった

優しく響く三線は 爆撃の轟に消えた

青く広がる大空は 鉄の雨に見えなくなった

草の匂いは死臭で濁り

光り輝いていた海の水面は 戦艦で埋め尽くされた

火炎放射器から噴き出す炎

幼子の泣き声 燃え尽くされた民家 火薬の匂い

着弾に揺れる大地 血に染まった海

魑魅魍魎のごとく 姿を変えた人々

阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶

みんな生きていたのだ

私と何も変わらない 懸命に生きる命だったのだ

彼らの人生を それぞれの未来を

疑うことなく思い描いていたんだ

家族がいて 仲間がいて 恋人がいた

仕事があった 生きがいがあった

日々の小さな幸せを喜んだ

手を取り合って生きてきた

私と同じ 人間だった

それなのに 壊されて 奪われた

生きた時代が違う ただそれだけで 無辜の命を

当たり前に生きていた あの日々を

摩文仁の丘 眼下に広がる穏やかな海

悲しくて 忘れることのできない この島のすべて

私は手を強く握り 誓う

奪われた命に思いを馳せて 心から誓う

私が生きている限り こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を

絶対に許さないことを

もう二度と過去を未来にしないことを

全ての人間が 国境を越え 人種を超え 宗教を超え

あらゆる利害を超えて 平和である世界を目指すことを

生きること 命を大切にできることを

誰からも侵されない世界を創ることを

平和を創造する努力を 厭わないことを

あなたも感じるだろう この島の美しさを

あなたも知っているだろう この島の悲しみを

そして あなたも 私と同じこの瞬間を一緒に生きているのだ

今を一緒に 生きているのだ

だから きっと分かるはずなんだ

戦争の無意味さを 本当の平和を

戦力という愚かな力を持つことで

得られる平和など 本当はないことを

平和とは当たり前に生きること

その命を精一杯輝かせて生きることだということを

私は 今を生きている みんなと一緒に

そして これからも生きていく

一日一日を大切に 平和を想って 平和を祈って

なぜなら 未来は この瞬間の延長線上にあるからだ

つまり 未来は 今なんだ

大好きな 私の島

誇り高き みんなの島

そして この島に生きる 全ての命

私とともに今を生きる私の友 私の家族

これからも 共に生きてゆこう

この青に囲まれた美しい故郷から 真の平和を発信しよう

一人一人が立ち上がってみんなで未来を歩んでいこう

摩文仁の丘の風に吹かれ 私の命が鳴っている

過去と現在 未来の共鳴

鎮魂歌よ届け 悲しみの過去に

命よ響け 生きゆく未来に

私は今を 生きていく



相良倫子

写真 時事通信社





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  1. 2018/06/23(土) 17:42:25|
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8月9日 72年目の夏 iPhone






暑い バス停に立っているだけで汗が出てくる

太陽があたる背中はカチカチ山状態

9日の都心の最高気温 37.1℃(12:14) 湿度50%

体感的には40℃を越えているだろう

慰霊の日にあたる長崎も 30.0℃(12:29)の真夏日

今年も 長崎の平和宣言は 広島の平和宣言よりも

ノーモアヒバクシャをめざす強い意志が伝わる内容だった



キャンパス



日本政府に訴えます

核兵器のない世界を目指してリーダーシップをとり

核兵器を持つ国々と持たない国々の橋渡し役を務めると明言しているにも関わらず

核兵器禁止条約の交渉会議にさえ参加しない姿勢を被爆地は到底理解できません

唯一の戦争被爆国として 核兵器禁止条約への一日も早い参加を目指し

核の傘に依存する政策の見直しを進めてください

日本の参加を国際社会は待っています

長崎平和宣言より



iPhone7plus
キャンパス
2017.8.9. 撮影


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  1. 2017/08/09(水) 23:59:09|
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8月6日 72年目の夏






鋭い閃光がピカーッと走り 凄まじい放射線と熱線 ドーンという地響きと爆風

真っ暗闇の後に現れた景色のそこかしこには

男女の区別もつかないほど黒く焼け焦げて散らばる多数の屍

その間をぬって  髪は縮れ真っ黒い顔をした人々が

焼けただれ裸同然で剝がれた皮膚を垂らし

燃え広がる炎の中を水を求めてさまよう

目の前の川は死体で覆われ 河原は火傷した半裸の人で足の踏み場もない

このような地獄は 決して過去のものではありません

核兵器が存在し その使用を仄めかす為政者がいる限り

いつ何時 遭遇するかもしれないものであり

惨たらしい目に遭うのは あなたかもしれません

2017年8月6日 広島「平和宣言」より



72年目の空 2017年8月6日




〔関連ブログ記事〕

2011年8月9日 原爆投下目標 京都
2016年8月6日 原爆投下目標点 京都 梅小路機関区


「この世界の片隅に」舞台を巡る すずの見た広島・呉の風景 朝日新聞



FUJIFILM X20
2017.8.6. 撮影


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  1. 2017/08/06(日) 13:51:16|
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餓死する「英霊」たち






けさもまた数名が昇天する

ゴロゴロ転がっている屍体にハエがぶんぶんたかっている

どうやらおれたちは人間の肉体の限界まで来たらしい

生き残ったものは全員顔が土色で

頭の毛は赤子のウブ毛のように薄くぼやぼやになってきた

黒髪がウブ毛に いつ変ったのだろう

体内にはもうウブ毛しか生える力が 養分がなくなったらしい

やせる型の人間は骨までやせ 肥る型の人間はブヨブヨにふくらむだけ

歯でさへも金冠や充填物がはづれてしまったのを見ると

ボロボロに腐ってきたらしい 歯も生きていることをはじめて知った

このころアウステン山に不思議な生命判断が流行り出した

限界に近づいた肉体の生命の日数を統計の結果から 次のやうにわけたのである

この非科学的であり 非人道的である生命判断は決してはずれなかった

立つことの出来る人間は  寿命は三〇日間

体を起して坐れる人間は  三週間

寝たきり起きられない人間は  一週間

寝たまま小便をするものは  三日間

ものいはわなくなったものは  二日間

またたきしなくなったものは  明日

ああ 人生わずか五〇年といふことばがあるのに

おれはとしわずかに二二歳で終わるのであろうか

(小尾靖雄「人間の限界―陣中日誌」『実録太平洋戦争』第2巻より)


この記録は小尾)靖夫少尉(川口支隊歩兵124聯隊旗手)が残した戦場の実態だ

ガダルカナル戦では戦死者約5000人に対し 餓死者は約1万5000人

餓死する「英霊」たち それはガダルカナルに限らず 各地の戦場で見られたことだった

「めくれあがる皮膚の匂い 散らばる内蔵の匂い 腐りゆく自分の匂い」(「野火」より)




富士裾野における野外教練(1941~42年頃)

富士裾野における野外教練(1941~42年頃) 寄贈アルバムのモノクロ写真を複写 カラーに変換
1943年に卒業した彼らたちは各地の戦場に召集された 特攻で戦死したもの 中国戦線で戦ったもの このなかの何人が生き残れたのだろう




戦争をはじめるのは大人たち そして戦場で死ぬのはいつも若者 

若い人たちは とくにこのことを覚えておいてもらいたい


2016.8.15.



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  1. 2016/08/15(月) 01:15:35|
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原爆投下目標点 京都 梅小路機関区






あまり知られてはいないが 京都は原爆投下の第一目標だった

1945年5月10日と11日に開かれた第2回目標選定委員会の会議記録を記す

極秘文書には つぎのように記されている




マンハッタン計画極秘文書より




「 (1)京都――この目標は、人口100万を有する都市工業地域である。

それは、日本のかつての首都であり、他の地域が破壊されていくにつれて、

現在では多くの人々や産業がそこへ移転しつつある。

心理的観点から言えば、京都は日本にとって知的中心地であり、

そこの住民は、この特殊装置のような兵器(原爆)の意義を

正しく認識する可能性が比較的に大きいという利点がある。〔AA級目標〕」


このように 京都は「AA Target」 最有力目標だった

投下目標点は 梅小路機関区




マンハッタン計画極秘文書より




大型蒸気の機まわしもできた大きな転車台と扇形機関庫は

1万mの上空からでも目立ったことだろう




京都鉄道博物館 梅小路蒸気機関車庫




だが 京都は占領政策とのからみで目標から一時除外された

これによって京都と同じ「AA級目標」とされた広島が第一目標に浮上し

京都にかわって 長崎が目標都市に新たに選定された

これに関しては ブログの「原爆投下目標 京都」を参照




しかし もし梅小路に原爆が投下されていたら どうなっていただろう

広島は 10秒で衝撃波に飲み込まれ 10秒で破壊されたという


『原子爆弾災害調査報告書』によると 投下直後の状況はこうだ

「広島では、爆心直下を中心とし、だいたい径2キロメートルまでの地域内では、

木造家屋はまったく崩壊し、かつ全く焼失した。

堅牢なコンクリート建物はだいたいにおいて崩壊はしなかったが、

窓は全部吹き飛ばされ、内部はことごとく焼失した。

家屋の焼失は、家屋の崩壊のために二次的に起ったとの観察もあるが、

土木建築科会の調査の結果から、爆心直下から六三〇メートルヘの地点へは

摂氏約二、〇〇〇度の熱が到達したと推定せられるので、

半径一・八キロメートルの円周圏内では輻射熱の直射によって、

一次的に火災発生の可能であることが充分に想像し得られると思う。

広島では更に二キロメートルないし四キロメートルの圏内は、

木造家屋はその距離に応じて、全壊または半壊したが火災は起らなかった。

窓ガラスの破損は遠く一六キロメートル以上の地点まで及んでおり、

樹木への影響は二〇キロメートル程度、

爆風を感じたのは六〇キロメートル辺までも及んでいる。」

(『広島原爆戦災誌』1971年広島市発行)


これを京都にあてはめれば 北は本願寺 四条烏丸はもちろん

京都府庁や二条城 京都御苑の南側あたりまでが潰滅

東は 八坂神社 清水寺 三十三間堂 東福寺などが潰滅となる




京都鉄道博物館 梅小路蒸気機関車庫




71年目の「Hiroshima」は 猛暑の土曜日

梅小路機関区の跡地に作られた京都鉄道博物館も

たくさんの子供たちで にぎわっていることだろう




京都鉄道博物館 梅小路蒸気機関車庫




ただここを訪れる大人かたたちは

ここが原爆投下の第一目標だったことを

ぜひ知っておいてもらいたい

転車台の近くで空を見上げて

平和の大切さをあらためて感じとってもらいたい


2016年8月6日




京都鉄道博物館
2016.7.23.撮影

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  1. 2016/08/06(土) 15:06:52|
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沖縄「慰霊の日」






今年も慰霊の夏がやってきた




DSC_1805-0505.jpg




71年前の6月21日午後1時5分

米軍は「沖縄の組織的抵抗は終了」と認識し

翌22日には沖縄第32軍の司令官牛島中将が自決する

しかし その後も戦闘は継続し

米軍が「沖縄戦終了宣言」を出したのは7月2日

各地に残っていた守備隊が米軍の説得に応じて投降し

正式に降伏文書に調印したのは9月7日のことである

県民の犠牲は12万以上に及んだ

http://makobei2008.blog82.fc2.com/blog-entry-2648.html
http://makobei2008.blog82.fc2.com/blog-entry-2650.html



しかし ここで考えるべきは 日本軍が駐留していたから

沖縄が戦場になったことである

そしていまも 全国の米軍専用施設面積の約73.9%が沖縄に集中する

基地があるから いくつもの尊い命が失われてきた

米統治下の1995年9月 6歳の幼女が米兵に車で連れ去られ

基地内で何度も暴行されて殺害され ごみ捨て場に捨てられた

1959年6月 石川市(現在のうるま市)の宮森小学校に

アメリカ空軍のF-100ジェット戦闘機が墜落し

児童11人をふくむ17人が犠牲となって 重軽傷者も121人に及んだ

沖縄ではよく知られた事件だが 本土では忘れられている

その後も 1995年9月 小学生の少女が集団で米兵に強姦されている

2004年8月には米軍のヘリコプターが沖縄国際大学に墜落した

そして今年の4月にも 結婚を控えていた20歳の女性が軍属に強姦され殺害された

沖縄は いつまで日米の植民地にされるのか

この夏の参院選挙は 沖縄の基地問題と日本の将来を見すえて1票を投じたい





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  1. 2016/06/23(木) 02:05:27|
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74年目の12月8日






米英蘭に対する開戦記念日ということで

関連記事を書こうと思ったが

明日の準備に追われて時間がない

このため だいぶ昔に撮影した写真から

真珠湾のアリゾナ記念館にある慰霊の銘板




真珠湾 アリゾナ記念館




ただし真珠湾作戦は「対米英蘭戦争帝国海軍作戦計画」にある

「第一段作戦に於ける全般の作戦要領」では六番目

最重要作戦は 真珠湾への奇襲直前に実施された

マレー半島コタバルへの上陸作戦だ




Nikon
1998年.撮影

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  1. 2015/12/09(水) 00:18:22|
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