光と風のなかへ & 追憶の鉄路

尾道歴史紀行 舟形光背五輪浮彫塔







尾道には船の形をした光背こうはい

二基の五輪塔ごりんとうを刻んだ

舟形光背五輪浮彫塔ふながたこうはいごりんうきぼりとうが数多く残ります



なかでも持光寺にある

舟形光背五輪浮彫塔は

もっとも古いもの




尾道 持光寺 舟形光背五輪浮彫塔




むかって右側の塔の基礎(地輪)には

「逆顔妙安禅尼 元和七年 六月廿五日」

左側の塔の基礎(地輪)には

「深譽宗心禅門 元和七年 四月廿四日」

と刻まれています



この二人がどのような人だったのか

詳しいことはわかりませんが

おそらく尾道の繁栄を支えた

有力な商家の夫婦だったのでしょう



夫が元和7年(1621)4月24日に亡くなり

そのあとを追うように

妻も6月25日に亡くなったようです



夫婦連名のお墓



そこからうかんでくるのは

仲がよかった両親を弔うために

子供たちが建てたというイメージでしょうか



しかし 関東地方の石塔を調べた

国立歴史民俗博物館の新谷尚紀さんによると

江戸時代に庶民が石のお墓を建てるようになったのは

ともに生き 家を営み 子供を育ててくれた妻のために

夫が夫婦連名で 来世の安穏を祈ろうとしたことが

大きなきっかけだったそうです




この新谷さんの指摘をヒントにするならば

尾道の舟形光背五輪浮彫塔も

夫が妻のために生前からお墓を造り

死後 残された相方や子供たちが

戒名などを刻んだものなのかもしれません



このあと尾道では

こうした夫婦墓が

あいついで造られます




光明寺 舟形光背五輪浮彫塔

元禄6年(1693)と元禄13年(1700)の年号を刻む光明寺の舟形光背五輪浮彫塔




元禄時代になると

全体がスリムになって

光背は船そのもの



二人でこの船に乗り

西方浄土に流れつくことを

願ったのでしょう

港町 尾道にふさわしいお墓ですね




江戸時代も半ば頃になると

さらに立派な夫婦墓が登場します




尾道 西國寺 家形五輪浮彫石室

西國寺 家形五輪浮彫石室




この石室は二基の五輪塔を浮き彫りにして

側壁には蓮の花のつぼみまで彫っています




西國寺 家形五輪浮彫石室




こうした石室は価格もはるため

舟形光背五輪浮彫塔と比べると

数は多くはありませんが

妻に寄せる夫の愛情と感謝が伝わってきます



ちなみに江戸時代のお墓は

一人 あるいは夫婦の名前を連名で刻むもので

○○家の墓というお墓はありません




高根島 長全寺

手前のお墓は天保(てんぽう)10年(1839)  奥のお墓は明治7年と32年 どれも夫婦連名の形をとる




もともとお墓は個人単位で建てるものでした

それが明治のなかばをすぎるころから

家単位のお墓が登場してきます

女性の権利を剥奪した

明治民法の成立と家制度の確立が

そこには大きく影響していました




お墓を調べる

それは

お墓が建てられた時代の

家族のありかたを調べる作業でもあるのです




海龍寺 無縁墓

尾道 海龍寺の無縁墓  一番上にある宝篋印塔は14世紀に造られた供養塔








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  1. 2008/09/29(月) 23:28:57|
  2. 瀬戸内紀行
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秋の気配







お彼岸

見あげる空は秋の顔




お彼岸の空




雲たちが少しずつ

秋を運んできます





自宅ベランダから

GX200

2008.9.23.16:09


  




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  1. 2008/09/23(火) 16:46:00|
  2. 空のキャンバス
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尾道歴史紀行  西國寺 







寺の町ともよばれる尾道

最盛期には81にも及ぶお寺があったと伝えられています

いまも21か寺が古き時代の伝統を受け継いでいます



そのなかでも尾道を代表するお寺が

真言宗の西國寺(さいこくじ)



坂道を登っていくと

仁王門がみえてきます




西國寺山門



両脇には2mはあろうかという大きな藁草履

横に置けばベッドのかわりにもなりそうです




西國寺山門



西國寺は

11世紀の後半に白河天皇によって再興され

院(上皇)の勅願寺として栄えました



その後

鎌倉時代にはいって

院の勢力が衰退すると

勢力はいちじ衰えたようですが

室町時代になると

備後びんご の守護大名であった山名氏の保護を受け

山名一族や家臣からも莫大な寄付を得て伽藍を再興させます




西國寺




仁王門から長い石段をのぼると

目の前にあらわれるのが

至徳しとく 3年(1386)に建てられた金堂

重要文化財に指定されています




西國寺本堂

入母屋造の妻飾は二重虹梁大瓶束(にじゅうこうりょうたいへいづか) 屋根の重量感が伝わってきます




本堂の後方の山の上には

室町時代に建てられた三重塔がみえます




西國寺




塔までは近そうに見えますが

比高差およそ30m

しばらく石段と坂道を登ります

夏の尾道は体力勝負

ふう 



途中にある歴代住職の墓とされる一帯には

中世後期から現代までの五輪塔ごりんとう が並んでいます




西國寺 歴代住職の墓




なかでも奥の後列には

14世紀末頃までさかのぼる

五輪塔の一部が残っています




西國寺 歴代住職の墓地内にある南北朝期の五輪塔(一部)

多くの五輪塔は のちに組み直したもので 本来の組み合わせではありません




三重塔が見えてきました

あともうちょっと




西國寺 三重塔




将軍足利義教の寄進によって

永享えいきょう 年中(1429~1441)に建てられた三重塔

本堂と同じく重要文化財に指定されています



ふう

やっと着きました




西國寺




見落とされがちですが 塔の裏手には

14世紀前半に造られた五輪塔もあります

高さは269cm

瀬戸内地方では最大規模の五輪塔です

こちらのほうが三重塔よりも先輩です




西國寺 五輪塔



浄土寺とならぶ尾道を代表する寺院

西國寺

尾道の散策には はずせません





西國寺




GX200






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  1. 2008/09/22(月) 20:30:00|
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尾道歴史紀行  御所崎







平安時代の終わり平氏によって整備され

室町時代は瀬戸内海屈指の港町として栄えた尾道




尾道の街並みと向島 その間を流れる尾道水道

西國寺からの眺望  中世は市街地に海が広がり入り江となっていた




画面の中央から右側にひろがる向島むかいしま

天然の防波堤となって静かな入り江を形成し

たくさんの船が出入りをしていました



中国や朝鮮との貿易の基地としてもにぎわい

永享4年(1432)には兵庫を出航した遣明船けんみんせん

尾道に立ち寄って中国山地で産出された銅を積み込み

明(中国)にむかっています



現在の市街地もかつては海

平氏の時代の港がどこにあったのか

その場所ははっきりしませんが

尾道の有力寺院 西國寺さいこくじ の南麓あたり

さきほどの画面の中央

市街地あたりにあったと考えられます




尾道 西國寺

西國寺から市街をのぞむ




尾道の古い寺院や神社が

坂や石段を登った高台に建っているのも

かつては市街地の大部分が

海だったことを物語っています




尾道 浄土寺 

浄土寺の多宝塔  鎌倉時代 1329年建立の国宝建築

多宝塔としては栃木県足利市にある鑁阿寺(ばんなじ)につぐ大規模なもの




文安2年(1445)の『兵庫北関入船納帳ひょうごきたぜきいりふねのうちょう 』によると

この年 尾道から兵庫(神戸)の港に入港した船の数は61回

瀬戸内海沿岸部から米や塩 筵や鉄を運んできました



なかでも尾道の御所崎ごしょざき

「尾道御所崎次郎三郎の船」

「尾道御所崎肥後衛門の船」

のように何度も記録に登場し

全部で15艘の船を確認できます



ここに記される「御所崎」は

西國寺の南麓からだいぶ東(駅)より

どうやら時代とともに港の中心は

東側に移ったようです



その「御所崎」がこのあたり




尾道 御所崎




市街地をいれて上から撮影しようと跨線橋に登ったら

山陽本線の115系が走ってきました




御所崎あたり




東海道の東京側から消えた車両が懐かしく

気がついたら鉄道写真を撮っていました ^^;

市街地は国道2号線の右側に広がります



その国道に面した銀行の地下からは

14世紀の護岸状の遺構が確認されています

かつては国道近くまで海が迫り

多くの船が係留されていたのでしょう



港町尾道は 長い歴史のなかで

山を崩し埋め立てながら発展してきた町なのです




尾道





GX200





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  1. 2008/09/20(土) 00:54:04|
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  3. | コメント:10

尾道歴史紀行  御袖天満宮







26年ほど前の映画ですが

ご覧になりましたか

大林宣彦監督の『転校生』



尾道の名を全国に広めた

尾道三部作の第一作でした



転校してきた中学生の斉藤一美(小林聡美)が

幼なじみの斉藤一夫(尾美としのり)と一緒に

ふとしたはずみで石段を転がり落ちて

男と女のからだが入れ替わってしまう

そんな物語でしたね



その印象的なシーンに使われたのが

ここ御袖みそで天満宮の石段です




御袖天満宮




良質な花崗岩の産地でもあった尾道の歴史を物語るように

一枚の長い石を贅沢に使って作られています



ところがよくみると

登り切る最後の石段のところに

切れ目を入れています



これは石段を製作した尾道の石工いしく

自分の技術はいまだ未熟であるとの自戒をこめて

あえて石を2枚に継いだものだそうです



しかしこの急な階段を転げ落ちたら

男女が入れ替わるどころではないだろうなぁ




御袖天満宮にはもうひとつ

おもしろいものがあります




御袖八幡宮




一見すると ただの池ですが

よく見ると中央にしめ縄をまわした

大きな石の筆が建っています

その右側にあるのは墨

筆の左側には

やはりしめ縄をまわした文鎮があります

池は硯石

あとは半紙があれば

書道の道具が一式揃います



その半紙が用意されるのは藤が咲く季節

池の上の藤棚に真っ白な花が咲き

半紙になるそうです



学問の神さまを祭る天神さまに

ふさわしい作品ですね






GX200






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  1. 2008/09/17(水) 22:25:25|
  2. 瀬戸内紀行
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瀬戸内歴史紀行  佛通寺 







今年は3回目となる安芸出陣

直通の「のぞみ」のE席(2列窓側)が確保できなかったため

300系の「のぞみ」に乗車して新大阪に向います




ひかりRail Star 新大阪にて

新横浜から乗車した300系(奥)とこれから乗車する700系「ひかりRail Star」(手前)




新大阪からは

700系の「ひかりRail Star」に乗り換えて

一路 西へ




グレーの車体のひかりRail Star 新大阪駅にて




東日本の方にはなじみがうすい「ひかりRail Star」ですが

指定席なら「サルーンシート」をとりつけた

2列+2列の4列シートで快適にすごせます




しかし快適だったのは車内まで

いつもなら秋の気配を感じるこの季節

それが真夏のような陽射しに

連日32度を超す猛暑!




古い街並みが残る竹原

古い街並みが残る竹原  西方寺より




8月後半に感じた秋の気配は

どこに行ってしまったのでしょう




安浦町内海

中世武士団 内海(うちのうみ)衆のふるさと 安浦   暑さのせいか海がかすんで見えます




炎天下での作業は

金属の調査機材が熱せられて

素手では持てないほど

デジイチの電子回路も

おかしくなりました




安浦に残る南北朝期の宝篋印塔

内海衆の財力の高さを示す宝篋印塔(ほうきょういんとう)  基礎のみ14世紀後半か




それでも深山幽谷の地に足を踏み入れると

ほんの少しだけ空気が冷たく感じます




佛通寺




ここ三原市にある佛通寺(ぶっつうじ)は

安芸国の中世武士団として名高い小早川春平が

中国で山林修行の教えを学んで帰国した臨済宗の高僧

愚中周及(ぐちゅうしゅうきゅう)を迎えて

応永4年(1397)に建てた寺




佛通寺




小早川一族の篤い保護を受けながらも

寺内のことは僧侶たちの評定(ひょうじょう)で決定し

愚中門派の本山としてみずからの手で僧侶を養成しました

また

室町幕府とむすびついて権勢をふるった京都五山(ござん)に反発し

いちどでも五山におもむいた僧侶は末寺の住持にもつかせないなど

五山に対する対抗意識と気概をもって地方で理想を追い求めました




佛通寺




石段をふうふう言いながらのぼりつめた山上には

創建以来の唯一の建物となる地蔵堂が建ちます




佛通寺 地蔵堂 (重要文化財)

地蔵堂(左)と開山堂(右)




今回のお目あてはその隣に建つ非公開の開山堂

特別に許可をいただいて堂内にはいります




佛通寺  開山堂

開山堂





もみじの季節は多くの観光客でにぎわいますが

真夏は訪れる人も少なく鮮やかな緑をひとりじめ




佛通寺




しかしお地蔵さんも暑いだろうな





佛通寺

佛通寺




瀬戸内紀行

次回に続きます





GX200





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  1. 2008/09/15(月) 01:49:12|
  2. 瀬戸内紀行
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