光と風のなかへ & 追憶の鉄路

アパートの猫 お母さん猫






久しぶりに会った アパートのお母さん猫

年をとって 少しやせたかな




アパートの猫




話題はかわるが 自民党の驕りがとまらない

報道によると「マスコミへの広告料収入をなくせ」などと暴言をはいたのは

東京16区(江戸区)選出の大西英男だという

大西英男といえば 2014年の衆院総務委員会において

当時 維新の会の女性議員にセクハラやじを飛ばし

石破茂幹事長から厳重注意を受けた 愚か者

HPを見ても 今回の件について全く反省の色が見えない

大西に限らず 国会議員のなかには ひとりよがりな歴史認識を持ち

あまりにレベルの低い人間が多すぎる

大西は前回の衆議院選挙では東京16区において

9万8536票 46.3%もの大量票を獲得したそうだが

江戸川区民 次回も当選させたら 同じレベルの人間だとみなされてしまうよ




FUJIFILM X20
2015.6.22.撮影

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  1. 2015/06/28(日) 13:57:31|
  2. 町のねこたち
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ナナちゃん きょうもお昼寝中






貴志駅の名誉駅長だった「たま」

先日 訃報が国内外に流れて 天声人語にまで登場した

猫の平均寿命は2013年度は15.0歳(日本ペットフード協会)

たまは16歳と2か月だったというから 長生きしたほうだろう

6月28日は 12時30分から貴志駅で神式による社葬だそうだ


こちらは町の人気者 ナナちゃん

彼女も たまと同じぐらいの年齢のはずだ

最近は 一日中 寝ているが まだまだ元気でいて欲しい




猫のナナちゃん



FUJIFILM X20
2015.6.25.撮影

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  1. 2015/06/26(金) 16:39:04|
  2. 町のねこたち
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新聞各社は沖縄戦を理解しているのか






24日の新聞は 沖縄の「慰霊の日」を

さまざまな角度から伝えていた

しかし 不勉強な記事も少なくない


無知も甚だしいのが 安倍さんの御用新聞と化している 産経新聞

「沖縄戦が終結したのは昭和20年6月23日」

おいおい この日は まだ「終結」なんかしてないよ




沖縄戦

〈海兵隊員から水をもらう女の子 米海兵隊写真資料 沖縄公文書館〉




朝日などは 「組織的戦闘が終わったとされる日」とあって

やや あいまいな記事に仕立てているが それでも おかしな記事はある


毎日新聞は こう書いている

「沖縄戦が事実上の終結を迎えた」


朝日新聞には こんな記事まである

「本土より一足早く『戦後70年』を迎えた沖縄」


これでは 産経の記事と たいした差はない

読者は 23日で戦闘は終わったと誤解してしまう


そんななか 東京新聞は きちんと説明を加えていた

「日本軍の組織的戦闘は6月23日

第32軍の牛島満司令官の自決で終結したとされるが

その後も戦闘は続き 9月7日に降伏調印した」


9月7日まで きちんと解説している

新聞は こうあるべきだろう


新聞各社は もう少し沖縄戦を勉強したほうが良い

沖縄戦は過去の出来事ではなく いまにつながる出来事なのだから


これに対し 県立与勝高校3年 知念捷くんが詠んだ

『平和の詞 みるく世がやゆら』が 素晴らしい
  
https://www.youtube.com/watch?v=xSpU5Nq0OpQ



沖縄戦 白旗の少女(比嘉富子)

名前も知らない老夫婦と一緒にガマに隠れていた比嘉〈旧姓松川〉富子さん〈当時7歳〉は
70年前の今日6月25日 米軍の二世兵士が拡声器を使って投降を呼びかける声を聞く
富子さんは 老夫婦と一緒に死ぬことを考えたが 生きる大切さを教え諭され
動けないおじいさんの褌で作った白旗をもって 一人 ガマから脱出した
やがて米軍に見つかって 従軍カメラマンのヘンドリクソンさんに写真を撮られた
このとき 「もし敵と面と向かいあうことがあっても 最後は笑って死ね」 という父の言葉を思い出し
白旗を結びつけた木の枝を高く掲げ 左手をふって 彼女を狙っていた丸い穴に向かって笑いかけた
そのときの写真が のちに「白旗の少女」として有名になる この一枚だ
富子さんは その後 43年ぶりにヘンドリクスさんと自分を写したカメラに対面している

〈参考 比嘉富子『白旗の少女』講談社青い鳥文庫〉

なお 第10軍G2Reportによれば 25日に殺害された日本兵は421人以上 住民の保護は466人となる
沖縄戦は まだ「終結」なんかしていない







  1. 2015/06/25(木) 23:17:42|
  2. カメラ日記
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「慰霊の日」は「沖縄終戦」ではない






6月23日の空




曇りがちな時間もあったが 青空が広がった6月23日

70年前の沖縄も 同じような天気だったのだろう

米軍第10軍G2Reportに「晴れ 時々曇」とある

きょう沖縄は 「慰霊の日」を迎えた


ニュースでも「組織的な戦闘が終結した日」と報道されている

これは 牛島中将の自決が23日とされてきたことに由来するものだが

牛島中将の自決の日は 第10軍G2Reportによれば

「6月22日午前3時40分」と記載されている

この日 陸軍省と参謀本部も「沖縄終戦ニ伴フ報道」の協議にはいり

省部の見解をまとめて 海軍と内閣に連絡している


実は 沖縄でも1964年までは 6月22日が「慰霊の日」だった

これは米国統治時代の琉球立法院において制定された

「住民の祝祭日に関する立法」(1961年立法第85号)に基づく

ところが1965年4月21日 突然改正され 6月23日に改められた

このときの立法院会議録(1965年4月9日 沖縄公文書館蔵)

「住民の祝祭日に関する立法の一部を改正する立法案」によると

根拠とされたものは「実録太平洋戦争」など いずれも戦後に記されたもので

史料としての価値は 米軍の戦闘記録よりもはるかにり劣る

それにもかかわらず 一部の者の手によってかえられてしまったのだ


このように 6月23日は 組織的な戦闘が終わった日ではない

先日も書いたように 米軍は6月21日午後1時5分をもって

「沖縄の組織的抵抗は終了」との認識をもっていた


しかし「慰霊の日」を考えるうえで 22日か 23日かは たいした問題ではない

重要なことは 6月23日をすぎても 散発的とはいえ 戦いが続いていたことだ

第10軍G2Reportから数例を紹介しよう

6月25日 日本軍の斬り込み攻撃が続く 日本兵186人が戦死

6月27日 夜間 斬り込み攻撃の結果 日本兵33人が戦死

6月28日 夜間 斬り込み攻撃の結果 日本兵20人が戦死

6月30日 日本兵27人が切り込むが 戦死


このように23日以降も 日本兵は抵抗を続けていた

こうしたなか6月26日には久米島に米軍が上陸する

そのなかで29日 久米島の日本軍によって住民9人が刺殺された

8月18日にも3人 20日にも8人が日本軍によって殺されている

6月23日を「慰霊の日」とすると こうした事実がみなすべり落ちてしまう


米軍が「沖縄戦終了宣言」を出したのは 7月2日だ

各地に残っていた守備隊が米軍の説得に応じて投降し

正式に降伏文書に調印したのは

敗戦から3週間以上たった9月7日のことだった

これが沖縄戦の終戦の日だった

したがって 慰霊の日は 7月2日か 9月7日こそがふさわしい

沖縄線の終結という誤ったイメージも広まっているので

県は検討を重ねて 早急に日程を改めるべきだろう




FUJIFILM X20
2015.6.23.撮影

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  1. 2015/06/23(火) 23:14:40|
  2. カメラ日記
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第32軍司令官牛島中将 自決






NHK沖縄放送局のHP

 「沖縄戦70年 語り継ぐ未来へ」の証言が必見だ

沖縄放送局では NHKが放送してきた沖縄戦に関連する番組も

毎月1本 選りすぐって再度放送しているらしい

これは本土でもぜひ放送してほしい

いや 本土でこそ放送すべきではないのか




紫陽花 多摩川台公園




今日22日は 沖縄第32軍の司令官牛島中将が腹を切って自決した日

米軍第10軍G2Reportによれば「腹部は割られ 首は切断されていた」という

介錯は 副官の坂口大尉がおこなった

米軍の第7師団が遺体を発見したのは 25日のことである

司令部はこの時点で消滅したが 牛島軍司令官は 19日付けで

決して降伏することなく 最後まで戦え との軍命令を出していた

このため戦闘は継続し 死ななくてもよい命が失われた 

牛島の責任は とても重い




2015.6.12.撮影
多摩川台公園

  1. 2015/06/22(月) 20:56:45|
  2. カメラ日記
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戦後70年 沖縄戦を読み直す






沖縄戦を戦った米軍の戦時記録 第10軍G2Reportを

日付を追いながら 改めて同日に読み直している

今年の沖縄はすでに梅雨が明けたが 当時はまだ梅雨のさなか

湿度も高く そのなかでの激しい戦闘記録がなまなましい

そのなかのほんの一部を 日付を追って引用しよう

ゆっくりと 文字を追うように 読んでほしい



沖縄戦

朝日新聞デジタル (戦後70年)沖縄戦より転載



6月10日 曇 気温67~80度(19.4~26.7℃) 湿度85~95%

死にもの狂いの日本人の抵抗が続く (略) 糸満を突破

日本軍の戦死者 6万8751人

捕虜 軍人669人 軍夫549人 保護住民15万9506人

米軍の戦死者 5188人 行方不明216人


6月11日 曇 気温73~84度(22.8~28.9℃) 湿度80~96%

小禄半島の日本軍は (略) 全力をあげて抵抗を続けている

日本軍の戦死者 7万2957人

捕虜 軍人731人 軍夫554人 保護住民16万8775人


6月12日 3/4曇 気温75~87度(23.9~30.6℃)

日本軍は小禄半島の重要丘陵地点から強力に抵抗

11~12日の夜間 多数の斬り込み攻撃

64人の戦死者の中に 女性が1人含まれる

日本軍の戦死者 7万4783人

捕虜 軍人816人 軍夫570人 保護住民15万7948人


6月13日 1/2~3/4曇 気温76~87度(24.4~30.6℃)

小禄半島の日本軍の組織的抵抗は全て終了

夜間 第7師団に対し強力な日本軍の反撃

各地の塹壕の日本軍は 米軍を寄せつけまいと必死の抵抗

日本兵集団が数回にわたって投降するところを

別の日本兵集団からの発砲を受けて投降できず

日本軍の戦死者 7万6452人

捕虜 軍人906人 軍夫574人 保護住民17万297人


6月14日 (天候 気温の記載なし)

日本軍がライフル 機関銃 迫撃砲で抵抗

単独兵が 米軍戦車隊の前進に対し命をかけて抵抗している

日本軍の洞窟と塹壕多数を破壊

日本軍の戦死者 7万7719人

捕虜 軍人953人 軍夫604人 保護住民17万3431人


6月15日 時々曇 気温76~84度(24.4~28.9℃) 湿度84~93%

国吉丘陵で猛烈な戦闘が続く  

日本軍は真栄里の丘と与座岳の陣地を固守

日本軍の戦死者 7万9180人

捕虜 軍人995人 軍夫622人 保護住民17万7249人


6月16日 1/2~3/4曇 気温76~84度(24.4~28.9℃)

国吉丘陵のほとんどの日本軍陣地を撃滅し 真栄里丘陵の北斜面に到達

日本軍の抵抗中心は与座岳 115高地 153高地である  

15~16日の夜間 斬り込み攻撃の結果 日本兵151人が戦死

米軍陣地前方で 手首を切ったり 喉を切ったり

手榴弾や爆雷の上に倒れて自殺した日本兵多数を発見

日本軍の戦死者 8万459人

捕虜 軍人1038人 軍夫642人 保護住民18万2046人


6月17日 時々曇 気温78~84度(25.6~28.9℃)

第7師団は戦車の拡声器を使い投降勧告

日本兵15人 軍夫60人 住民500~600人が投降

この大量投降は日本軍の組織的抵抗の破綻を示す初めての兆候である

日本軍の戦死者 8万2040人

捕虜 軍人1096人 軍夫730人 保護住民17万7992人


6月18日 1/2曇 気温77~86度(24.4~28.9℃) 湿度73~93%

全前線で順調に前進 (略) 夕刻には日本軍の抵抗は次第に下火になる  

午後2時50分 米須で日本兵と一緒に海に向かって逃げる多数の住民を発見

日本軍の戦死者 8万3492人

捕虜 軍人1157人 軍夫788人 保護住民18万1379人

(この日13:15 日本軍の砲撃により第10軍司令官バックナー中将戦死)


6月19日 曇 気温78~83度(25.6~28.3℃)

岩山の丘陵で抵抗する多数の孤立陣地を

戦車隊 火炎放射器班が次々破壊  

第3海兵軍団地区 師団左翼の日本軍の抵抗はまだかなり強力である
.
第24軍団地区 全前線で日本軍は自暴自棄の闘いを続ける

アメリカ軍は戦車に拡声器を乗せ 投降勧告

3000人以上の住民と106人の日本兵 238人の防衛隊が投降

真栄里で (略) 多数の住民が投降するためアメリカ軍前線に向かって進んでいる

日本軍の戦死者 8万6844人

捕虜 軍人1157人 軍夫788人 保護住民20万4371人


6月20日 1/2曇 気温75~84度(23.9~28.9℃) 湿度79~96%

各地に分散する多数の日本兵集団を撃滅  

日本軍は組織を失い死にもの狂いで抵抗するが 第24軍団は(略)前進

多数の住民が安全を求めて 師団前線に入ってくる

19~20日の夜間 日本兵122人が戦死

その中に 中佐1人 女性5人がおり 全て手榴弾で武装

日本軍の戦死者 9万401人

捕虜 軍人2480人 軍夫1273人 保護住民21万2066人


6月21日 曇 (気温 湿度の記載なし)

摩文仁と小渡も占領

昼間 住民が前線を通過できるようにと何度も戦闘を中断

住民の集団を調べてみると 常に日本兵が紛れ込んでいる

午後1時5分 沖縄の組織的抵抗は終了

現在 沖縄南部の日本軍の残存兵は分散した集団となっている

通信手段はなく 士気は低く 昼間動くこともできない

小規模の集団を除いて 集合することもできない

残存兵の多くは ゲリラに出るもよう   

日本軍の戦死者 9万4919人

捕虜 軍人3526人 軍夫1273人 保護住民21万2066人




沖縄戦

沖縄県立第二中学校(現那覇高校)裏側の大和人墓地帯での戦闘 (那覇市歴史博物館)



米軍の記録によると70年前の今日 沖縄の組織的な戦闘は終わった

Reportからも 17日頃から抵抗が弱体化していく様子が読み取れる

沖縄守備軍の第32軍司令官牛島中将が

組織的戦闘の終了を下達したのも 6月19日のことだった




沖縄戦

日本軍看護婦の死体
日本兵 軍医とともに日本軍のいる国吉に移動中だった彼女は
止まるよう命じられたが それでも逃げ 全員ヘンゲヘアー一等兵に射殺された
彼女が医薬品とともに持っていた投げ棒型手榴弾をかばんから引き出すヘンゲヘアー一等兵
彼女はライフルも所持していた  (沖縄公文書館 米海兵隊写真資料3 6月12日撮影)




かわって日本軍の手を離れた住民の投降が増えていく

地獄の戦場から生還した人々の姿を

米国陸軍省戦史編参部編集の『OKINAWA』は こう記す


六月の最後の二週間に 彼らは島の南端の洞窟から這いだしてきた

そのほとんどが子供か老人 あるいは女の人で

五体満足な男の人はごく少数だった

彼らは長い隊列をつくって 前線の後方へ歩いて行った

女の人はたいてい赤児を背に 衣類を束ねたものや 食料品

食器類 鍋釜など 持てるだけの財産を頭にのせて とぼとぼと歩いてきた

そして 途中で見つけしだい 砂糖キビを噛んでいた

そのほかにも幾千という民間人の死体が 溝の中 キビ畑 荒廃した村落内に散乱し

あるいは壕の中に そのまま入口を密封されて生き埋めになっていた

(米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』光人社より)




沖縄戦 白旗の少女(比嘉富子)
 
白旗の少女(老夫婦から命の大切さを教えられ投降する比嘉富子さん) 6月25日撮影



平和国家のブランドを捨て「戦争ができる国」に向かう日本

だからこそ いま「沖縄戦」にこだわりたい



月 桃  




六月二十三日待たず 月桃の花 散りました
長い長い 煙たなびく ふるさとの夏

沖縄戦を描いた映画「GAMA 月桃の花」の挿入歌


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  1. 2015/06/21(日) 14:29:13|
  2. カメラ日記
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きょうのバラ ニコール






ニコール




キヤノンから新型のコンデジ PowerShot G3 Xが発売される

広角24 望遠600ミリの高倍率ズームに1.0型センサー

しかもフィールドカメラに不可欠な防水防滴ときてる

EVFは外付けのようだが 旅カメラならこれで十分だろう

いまならEVFがおまけのようについてくる

これ 欲しいなあ

ただコンデジなのに10万超え ここがネックかな



Nikon
生田緑地ばら苑
2015.5.21.撮影

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  1. 2015/06/20(土) 18:42:46|
  2. 薔薇のかおり
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