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光と風のなかへ&追憶の鉄路

追憶の鉄路 1973年 会津の旅 03






会津線 最後の列車は 里の秋を行く C11

それにしても なんでこんな場所で

こんなふうに撮ったのだろう




追憶の鉄路 会津線




遠い 遠い 記憶をたどると 今回の旅では

柿の木を入れて 会津の風景を撮りたかったらしい

ただ 柿を実らせている木が見つからず 良い場所を探しているうちに

列車の通過時刻が近づいて しかたなく こんな構図にしたようだ

列車の位置は計算しているようだが

会津まで行って こんな繁雑な構図選びとは

なんとも もったいない 


1973年 会津の旅 完


C11 機番不明
会津線 場所不明
1973年(昭和48)11月7日
Canon FT


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テーマ:鉄道写真 - ジャンル:写真

  1. 2012/11/09(金) 22:35:01|
  2. 追憶の鉄路 C11
  3. | コメント:6
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  1. 2012/11/10(土) 12:01:49 |
  2. |
  3. #
  4. [ 編集 ]

撮れただけ

撮られただけいいですよ。
枯れ鉄は、古江線の大隅大崎で歩いているうちにC11の貨物が行ってしまいました(涙)
しかし、なんともいえない複雑な構図です(^^)
  1. 2012/11/10(土) 20:02:55 |
  2. URL |
  3. 枯れ鉄 #-
  4. [ 編集 ]

こんばんは☆

まこべえさんは本当に鉄道がお好きなんですねぇ(^^)
私は自称隠れ鉄ちゃん(←古い?)ですが、
もっぱら乗ったりお写真を撮るのが好きなだけで型式など全然分かりません(←覚える気がない^^;)
小さい頃、祖父に連れられて近くの東急池上線や山手線などを見に連れて行かれたのでこうなったのでしょうね^^(祖父は私をモデルにしたりして鉄道のお写真を撮ってました)

祖母の実家が福島ですので会津にも行った事がありますが こんな光景も見てみたかったゎ(^^)

長々と失礼しました。
  1. 2012/11/10(土) 22:26:32 |
  2. URL |
  3. 桜 #YiBduito
  4. [ 編集 ]

鍵コメさんへ

鍵コメさん、コメントありがとうございます (^^)
しかも、嬉しいお知らせ!
いつまでも待っていますので、ぜひぜひ、お願いしますね♪

そのうえ10代の頃に撮った写真までお褒めいただき、ありがとうございますm(_ _)m
鍵コメさんにお褒めいただくと、失敗したなあとと思う写真でも、少しはよく見えてくるから不思議です ^^;
もう少し右に行けば、もっと視野が開けるのに、あえてこんな風に撮ったのも、藁ぽっちの骨組みや、ほとんど落ちてしまった柿の木に、冬に向かう会津の気配を感じとったからなのかもしれませんね。
大きな藁ぼっちをど真ん中に配しているところから見ると、きっとこの藁ぼっち、気に入ったのでしょう(^^)

「人の気配」や「人のぬくもり」を感じさせる写真は、どこか見る側をホっとさせて、いいですよね。
なかでも、人が写っていなくても、そう感じさせる写真は、見る側の想像を駆り立てられるので、最高だと思います。
これからも、そんな写真を撮っていけたらいいな、と考えています。

ところで、きのう本能寺の変の放送があったのですか。
謎多き事件なので、あ~でもない、こ~でもないと議論するのは楽しく、人気のテーマなのでしょう。
一時は黒幕を探せ、といったアプローチが多かったようですが、まこべえは、この黒幕説、さほど魅力を感じません。
なんといっても光秀は、あの実力者集団である信長家臣団のなかで、No.1の地位を確保した武将。
そんな自立心も主体性も強い武将が、黒幕にけしたてられて謀反を起こしたとは、とても考えられません。
だれかと連携はしたかもしれませんが、基本は、光秀単独犯行でしょう。
本能寺の変で一躍有名になった三重大学の藤田さんが、もはや単独説は成り立たないと強調していますが、そんなことはないと思います(しかしむかし布団をならべて寝た彼が、本能寺の変で有名になるとは、あのころは想像もつかなかったなあ)。
そのなかで押さえておくべきポイントは、まず信長の家臣団は、徹底した成果主義であること。
成果をあげれば、どんどん出世できる。しかしダメになれば、すぐに出来るヤツにかえられる。
だから、光秀のような新参者でも、能力もすぐれ、かつ信長と同じ方向性をめざしているものは、どんどん抜擢されて、信長から高く評価される。
さらに信長は、そうしたものを家臣たちにもすぐれたものとして顕彰し、本人のやる気を出させるとともに、ほかのものに発破をかけていく。
まさに、下剋上を組織した軍隊です。
しかし、武将たちにすれば、それは、つねに馬車馬のごとく働かなければならないことを意味し、休むひまもなかったことでしょう。
当然、ストレスもかなりたまったと思います。
しかも、家臣団に対する締め付けは、年々厳しさを増してくる。
そのうえ成長してきた子どもたちは、成果主義とは別に、身内ということで重くもちいて、征服地につぎつぎと配置していく。
そんななかで起きたのが、長宗我部の処遇をめぐる問題でした。
信長から「光秀のつぎが秀吉だ」との評価を受けた秀吉は、長宗我部問題で光秀を出し抜き、その面目をつぶします。
そして、光秀が最後に命じられた仕事は、その秀吉が担当している中国攻めへの支援。
そして中国攻めが実現すれば、近江の坂本城や丹波の亀山城はそのまま保証されたとしても、本拠は西日本に移される可能性が大きかった。
義昭の家臣団も抱え込んで、日本の中心たる畿内の支配を担当していた光秀にとって、西日本への移転は、何のためにここまで頑張ってきたのか、という思いをいだかせたことでしょう。
しかも、信長が秀吉を重視しはじめたことで、彼との地位が逆転してしまった。
鍵コメさんが推定するように、秀吉がけしかけたことはないでしょうが、秀吉の存在が謀反の動機のひとつになっていたことは間違いないでしょう。
こうした反発が、信長を倒し、自らが政権を握るという行動に走らせていったのではないでしょうか。
そのころ、家康も、信長に内心は反発をもっていたようなので、家臣団のなかに、とくに信長の時代に家臣になったり、味方したものたちのなかに、いろいろな不満が高まっていたのではないでしょうか。
信長の権力というのは、実態は、かなり不安定な要素を抱え込んでいたと思います。
光秀やらなくても、誰かが暗殺したかもしれませんね。

ちなみに、まこべえ、むかしから、明智光秀、大好きなんです。
いまの仕事をするきっかけとなったのも、光秀の存在が大きいのです。
だから、あの世にいったら、一番最初に光秀を探し出して、なんで信長を討ったのか、聞こうと思っています。
でも、それで真相がわかっても、みなさんに教えられないのが、つらいところ (^^)
なんとかその記憶を残したまま、生まれかわって、これが真相だ! という本を書きたいですね(^^)

でも、戦国時代にだけはタイムスリップしたくない(^^)
なんといっても、戦争、飢饉、疫病が日常化していた厳しい時代。
大地震が頻発して、災害続きの時代。
大名にしても、庶民にしても、こんな厳しい時代はそうありませんから、生き延びるのもたいへんです。
何不自由なく暮らしていた現代からタイムスリップしたら、すぐに殺されてしまうかもしれません。
タイムスリップするなら、やはり未来のほうがいいかなあ(^^)

鍵コメさん、また気が向いたときにでも、コメントを通して、近況を知らせてくださいね。
そしていつかまた、すてきな写真を見せてくださいね♪





  1. 2012/11/11(日) 03:00:49 |
  2. URL |
  3. まこべえ #2XsKFzVg
  4. [ 編集 ]

枯れ鉄さんへ

枯れ鉄さん、コメントありがとうございます (^^)

歩いているうちに列車が行ってしまう、そんな経験はまこべえにもあります。
こういう時、駅に戻るときの足取りが重たいんですよね。
そう考えれば、たしかに撮れただけラッキーなのかもしれません。


>なんともいえない複雑な構図

少し欲張りすぎでしたね。
あのころは、蒸気機関車という車両中心の写真よりも、日本の風土のなかを、そして人々の生活を支えている汽車を撮りたいと思っていたので、いろいろな構図にも挑戦していました。
もっとも多くは失敗作。
それでも、今度はこう撮ろう、つぎはこう撮ろうと模索し、楽しい日々でした。
いまふりかえっても、一番いい時代だったかもしれません。
そのせいか、写真が訴える力は、高校生の頃がピーク。
やはりひとつのことに熱中できるということは、大きいですね。
  1. 2012/11/11(日) 16:40:55 |
  2. URL |
  3. まこべえ #2XsKFzVg
  4. [ 編集 ]

桜さんへ

桜さん、コメントありがとうございます (^^)

おじいちゃん、桜さんをモデルに鉄道写真を撮っている時が、一番の至福の時だったのかもしれませんね。
なんといっても、大好きな鉄道と桜さんの両方を、同時に撮影できるんですものね。
まこべえも、鉄道は大好きです。
写真を撮ること、好きな車両に乗ること、そして好きな車両の模型を走らせて遊ぶこと。
どれもが、大好きなひとときです(^^)
いつか時間ができたら、むかし歩いた土地をゆっくりとまた訪れてみたいと思っています。
しかし、むかしのように何キロも歩くことは、できないだろうなあ。

そんななか、会津は、むかしの風景が今もよく残っていて、ホっとさせられます。
それでも、藁ぼっちは、ずいぶん少なくなったと聞きます。
秋の風物詩だっただけに、ちょっと寂しいですね。
  1. 2012/11/11(日) 16:54:48 |
  2. URL |
  3. まこべえ #2XsKFzVg
  4. [ 編集 ]

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