光と風のなかへ & 追憶の鉄路

錦秋の円覚寺 03






妙香池(みょうこうち)からのぞむ円覚寺仏日庵

この季節の定番写真だ




鎌倉 円覚寺




池は 創建当初から存在し 14世紀の円覚寺境内絵図にも描かれている

夢窓疎石の作庭と伝えるが 現在の池は復元されたもので 当時のものではない

その池の脇の道を進み 右手の如意庵より 池方向をのぞむ




鎌倉 円覚寺




さらに進んだところにある 続燈院の銀杏

落ち葉の季節は 門前が黄色の絨毯で敷き詰められる




鎌倉 円覚寺



鎌倉 円覚寺
2012.11.29.撮影


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テーマ:お散歩カメラ - ジャンル:写真

  1. 2012/12/05(水) 01:27:13|
  2. 鎌倉だより
  3. | コメント:6
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コメント

おはようございます。
円覚寺の紅葉素敵ですね。
今年は円覚寺は行きそこねました。
私はまこべえさんが行かれた日、長勝寺・安国論寺に行きましたが、なかなかよかったです。
人もあまりいませんでしたし。
最後の銀杏のお写真いいですね〜。
04に入れようと思い、間違えて03に入れました。
まあ、どちらでもよいのですけど(笑)

コメントありがとうございました。
勉強になります。
  1. 2012/12/06(木) 09:21:51 |
  2. URL |
  3. YUMI #2Qwf./yA
  4. [ 編集 ]

YUMIさんへ

YUMIさん、コメントありがとうございます (^^)

この日は、鎌倉国宝館の特別展を見に行きました。
円覚寺は、その附録のようなものでしたが、ちょうど見頃を迎えていたこともあって、ずいぶん時間を費やしてしまい、YUMIさんが安国論寺周辺を散策されている頃、八幡宮にいました。
もしかしたら、そのあと、駅周辺ですれ違っていたかもしれませんね。

国宝館の特別展はご覧になりましたか。
伝頼朝像と時頼像が並んで展示されていたので、両者の類似性をまじまじと観察してきました。
こういう展示の仕方はいいですね。

YUMIさんのブログも伊勢盛時が登場し、戦国時代らしくなってきましたね。
この盛時、以前は、「生国も身分もはっきりわからない」と言われてきましたが、研究が進み、いまは生国も身分もはっきりしています。
また、今川に嫁いだ「妹」とされる女性も、「姉」に修正されています。
修正点ばかりコメント欄に書くのも申し訳ないので、今回は、自分のコメント欄に、以前、ある雑誌の編集部から依頼されて書いた伊勢盛時に関する記事を引用しておきます。


以下、記事の全文です。
なお、記事では、編集部の要請で、広く使われている「早雲」の名前で記しています。


 絶壁型の頭に、釣り上がった目尻、大きな鼻に、ヘの字に曲げた唇。肖像画が伝える早雲の風貌だ(早雲寺蔵)。意志の強い、頑固オヤジのような顔つきは、数多い戦国武将のなかでも異彩を放つ。鋭い眼光が見据える先は、自らがこじあけてしまった戦国の世の行く末だろうか。いったい北条早雲とは何者だったのか。
 これまで早雲は、謎多き武将として語られてきた。一介の素浪人から一代にして戦国大名にのしあがった男、そんな俗説もいまだに語られる。しかしここ十五年ほどのあいだに早雲の研究は飛躍的に進んだ。そのなかでいま、新しい早雲像が描かれつつある。
 まずは「北条早雲」という名前だ。実はこの名前、彼は一度も使用していない。本名は伊勢盛時(もりとき)とみられ、出家後は早雲庵(そううんあん)宗瑞(そうずい)と名乗った。その後、息子の氏綱の時代に北条に改めた。つまり「北条早雲」とは、改姓後の北条と、出家後の早雲庵を結びつけて江戸時代に創作された名前なのだ。呼ぶなら伊勢宗瑞がふさわしい。
 生まれた年も、一四三二(永享四)年とされてきたが、これも江戸時代の創作であって確かな年はわからない。ただ子(ね)年生まれと記す軍記物もあり、最近は一四五六年(康正二)生まれとする説が有力だ。この説によれば、これまで宗瑞の妹とされてきた今川義忠(よしただ)の妻北川殿(きたがわとの)は、姉となる。
 彼の出自と経歴も大きく書き換えられた。父は備中(びっちゅう)(岡山県)伊勢氏の出身で、幕府官僚の伊勢盛定(もりさだ)、母は幕府の政所(まんどころ)執事(しつじ)という要職にあった伊勢貞国(さだくに)の娘だった。宗瑞も、幕府名門の伊勢氏につらなる人間として、将軍への諸事取り次ぎを仕事とする申次衆(もうしつぎしゅう)となり、足利義尚(よしひさ)のそば近くに仕えた。
 宗瑞は、こうした父から受け継いだ幕府官僚の立場と、駿河(静岡県)の今川家との関係を最大限に利用しながら自らの野望を実現させていく。その最初の活躍は、一四八七(長享元)年、宗瑞三二歳のときに起きた今川家の内紛だ。
 この年、宗瑞は駿河に下り、幕府とも連携しながら、今川義忠なきあと当主代行を務めていた小鹿(おしか)範満(のりみつ)(義忠の従兄弟)を倒して、義忠の遺児龍王丸(りゅうおうまる)(一五歳)を新たな当主にすえ、その後見者となって力を振るった。この龍王丸こそ、今川家を戦国大名へと転身させた今川氏親(うじちか)である。宗瑞は、今川家の戦国大名化にも大きな役割をはたしていたのだ。
 その功績により興国寺(こうこくじ)城主(沼津市)となり(富士市の善徳寺(ぜんとくじ)城主とする説も有力)、ついで一四九三(明応二)年には伊豆の堀越(ほりごえ)公方(くぼう)足利茶々丸(ちゃちゃまる)を倒して、韮山(にらやま)城主(伊豆の国市)になった。しかもこの伊豆進出は、幕府管領(かんれい)の細川政元(ほそかわまさもと)が将軍足利義材(よしき)を追放して、新たに義澄(よしずみ)を将軍に擁立した中央政界の政変―明応の政変と密接に連携して引き起こされたものだった。そしてこの政変をもって、世のなかは戦国時代へと突入していく。
 そのなかで宗瑞は、今川家と深い結びつきを持ちながらも、今度は彼自身が伊豆一国を支配する戦国大名へとのしあがっていく。そして十五世紀末頃には相模の小田原城を制圧して、関東制覇に向けての第一歩を踏み出した。しかしそれは南関東に勢力をもつ扇谷(おうぎがやつ)上杉氏との戦いを激化させていくはじまりでもあった。
 宗瑞は戦いに明け暮れるなかにあって『宗瑞寺殿廿一箇条』とよばれる家訓も制定している。そのなかで「夜は五(いつ)ツ(午後八時頃)には就寝し、寅(とら)の刻(午前四時頃)には起きて行水と神に礼拝をすませよ」「厠(かわや)や厩(うまや)、庭、門外を廻って掃除すべきところを指示せよ」「心がまがっていては天道に見放される」「刀や衣装は立派なものを身につけず、見苦しくない程度で満足せよ」「少しの暇があれば本を読め」「上下万民に対し嘘はつくな」「言動には注意せよ」「よき友を選べ」「台所や居間は自分で廻って火の用心をせよ」といった日常生活の規範を細かく注意する。
 越前の朝倉教景(のりかげ)は、こうした宗瑞を「ふだんは針でも蔵に貯えるほど質素倹約に努めるが、いざ合戦の時は、それを惜しげもなく使う人だ」と評している(『朝倉宗滴話記』)。
 その言葉通り、一五一二(永正九)年、鎌倉を制圧して相模中央部まで進出し、一五一六年には扇谷上杉方の三浦義同(よしあつ)・義意(よしおき)父子を三崎城(三浦市)に滅ぼして、一代にして伊豆・相模を支配する戦国大名にのしあがった。さらに上総(かずさ)(千葉県中部)へも侵攻する。
 だが、一五一九(永正一六)年、宗瑞は、伊豆の韮山城において六四年にわたる波乱の生涯を閉じる。はたせなかった関東制覇の夢は、息子の氏綱、そして孫の氏康に託されることになった。


以上、引用終わりです。
参考になる点があれば、YUMIさんのブログに適宜引用してくださってもかまいません。
しかし、高校の先生は、苦手な時代があっても、すべての時代にわたって勉強し、しかもそれをコンパクトにまとめなければならないので、たいへんですね。
しかも研究も日々進んでいるので、そのすべてをカバーすることも難しく、ついつい専門領域以外は、旧説を披露してしまうのも、しかたありませんよね。
まこべえの指摘はあまり気になさらず、これからも講義を進めてくださいね♪



  1. 2012/12/07(金) 00:27:07 |
  2. URL |
  3. まこべえ #2XsKFzVg
  4. [ 編集 ]

まこべえさん、おはようございます。
こちらでも教えていただき、ありがとうございます。
お言葉に甘えて、私のブログに引用させていただきます。
分国法についてはまた後日書くつもりですので、その時にもまた参考にさせていただきます。
ありがとうございました。
  1. 2012/12/07(金) 09:35:36 |
  2. URL |
  3. YUMI #2Qwf./yA
  4. [ 編集 ]

YUMIさんへ

YUMIさん、コメントありがとうございます (^^)

戦国時代は、とてもおもしろい時代ですが、同時代を生きた人たちにとっては、飢饉・災害・戦乱が打ち続く、とても厳しい時代でした。
生きるために、雑兵となって戦場に行き、掠奪を繰り返す、民衆は、戦乱の被害者であると同時に加害者でもあった時代、それが戦国時代です。
そのなかで人々は、女性も含めて、したたかに、そしてたくましく生きていました。
ただ、世間に流布している合戦の話などの多くは、江戸時代の軍記物によって伝えられているものなので、ほとんどがフィクションです。
このため、記事として紹介するときも、新潮にされたほうがよいでしょう。

そうしたなか、天下統一をめざすものにとって必要だったことは、合戦に強いだけではなく、掠奪しなくても生きていける時代を作ること。
信長は少し違いますが、秀吉にしても、家康にしても、これはたいへんな作業だったと思います。
領土紛争を裁判によって解決し、戦場での掠奪で生計を立てているものたちを少しでも少なくするために、新たな稼ぎ場として巨大城郭や城下町の建設(いわば巨大公共事業)を推し進めていきました。
このように最近の戦国史は、合戦で敵を倒し、あるいは力で服属させて戦乱を終結させていったというような単純な見方では無く、裁判権の独占や公共事業の推進などを通して、戦乱のない社会を作りあげていった点を重視しています。
この点に関しては、戦国史研究者として著名な藤木久志氏の『雑兵たちの戦場』朝日新聞社などを参考にされるとよいでしょう。
たいていの図書館にはありますので、もしまだ未読ならば、一度お読みになることをお薦めします。
刊行は1995年と古いのですが、いまでもこの時代を考えるときには必読の文献です。

それにしても、この時代の厳しさ、そしてそれを乗り越えようと人々が必死に生きていた姿を伝えるのは、なかなか難しいですね。
まこべえも、今年いっぱいの約束で依頼されていた著書、わからないことだらけでついに書ききれず(たださぼっていただけという声も聞こえてきますが)、来年までのばしてもらいました。
こういうとき、文章力と想像力で書ける作家のかたが、とてもうらやましく思います ^^;
  1. 2012/12/07(金) 19:06:00 |
  2. URL |
  3. まこべえ #2XsKFzVg
  4. [ 編集 ]

ありがとうございます。
戦国時代、まこべえさんが書いていられるように「生きるために、雑兵となって戦場に行き、掠奪を繰り返す、民衆は、戦乱の被害者であると同時に加害者でもあった時代」だということは理解してはいますが、表現するとなると難しいなと思っていました。
『雑兵たちの戦場』まだ読んでいないので、読んでみます。
  1. 2012/12/07(金) 19:26:03 |
  2. URL |
  3. YUMI #2Qwf./yA
  4. [ 編集 ]

YUMIさんへ

YUMIさん、お返事ありがとうございます。

藤木さんの著書は、「生きるために、雑兵となって戦場に行き、掠奪を繰り返す」実情を、当時の自然環境と社会状況のなかにきっちりと位置づけた最初の研究です。
これを契機に、戦国史の研究が大きく前進したばかりか、他の時代の研究者たちにも大きな影響を与えました。
藤木さんの本は、どれも平易な割りに、高度な内容をもっていますので、ぜひほかの著書もお読みになれることをお薦めします。
教科書に採用された「惣無事令」の提唱者も藤木さんになります。
なお「雑兵たちの戦場」は、いま朝日選書に収録されて刊行されていますので、補足しておきますね。

  1. 2012/12/07(金) 20:45:53 |
  2. URL |
  3. まこべえ #2XsKFzVg
  4. [ 編集 ]

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