光と風のなかへ & 追憶の鉄路

沖縄慰霊の日






沖縄の梅雨明けは 平年は6月23日

激戦のさなかにあった69年前の夏も

わずかに残された記録から推察すると

梅雨明けは 6月20日から26日頃になるという

沖縄戦下における那覇の気象
http://www5.ocn.ne.jp/~dustmoai/okinawa1945.pdf


沖縄の夏空は とても美しい

しかしその夏空のもとで 激しい戦いはなお続いていた

1974年に沖縄県が6月23日を慰霊の日と定め

ニュースでも毎年取り上げられることから

この日を沖縄戦の終結の日と思われているかたが多い

しかしこの日は 第32軍の牛島司令官たちが

司令部壕のなかで「自決したとされる」日にすぎない

司令官の自決は軍の降伏や戦闘停止を意味しない

そればかりか牛島中将は残存部隊に対し

「最後迄敢闘」せよ と命じていた

このため抵抗は このあとも続けられたのだ


アメリカ第10軍が徹底した掃討作戦を実施して

沖縄作戦の終了を宣言したのは7月2日だ

そして最後まで残った宮古八重山の部隊が

降伏調印式をおこなったのは

敗戦から3週間もたった9月7日のことだった

このため沖縄市では9月7日を

「沖縄市民平和の日」と定めている

司令官の自決を基準に考える県よりも

住民の視点にたった制定日といえよう

沖縄県慰霊の日を定める条例
沖縄市民平和の日を定める条例


こうして沖縄では正規軍人を上まわる住民が犠牲となった

県援護課がまとめた戦死者の推定数によると

本土出身兵6万5908名

沖縄出身軍人軍属2万8228名

住民の戦闘参加者5万5246名

一般住民3万8754名

米軍1万2520名

合計20万656名に及ぶ

日本軍の9割は戦死している

沖縄住民の死者の合計は9万4000名だが

軍人軍属のなかには 軍人として召集された男子学徒や

軍属扱いで召集された女子学徒も含まれることから

これをあわせて沖縄出身者の戦没者は

およそ12万2000人とみられている

また敗戦前後のマラリアでの病死や餓死者なども含めると

住民の犠牲者数は15万人前後に及ぶと推定されている

いずれにしても膨大な犠牲である
 
14歳の少年まで召集し 老婦女子までも戦力化して

敵前に送りこんだのは 日本の対外戦争では沖縄戦だけだ

本土防衛と国体護持の戦略のために犠牲になった命

沖縄の海軍の根拠地隊の司令官であった大田実少将は

豊見城の司令部壕で自決する直前の6月6日

海軍次官に対し長い電報を打った

そのなかにつぎの一文がある


沖縄県民力ク戦ヘリ

県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ


追悼式典に出席した安倍首相は

その願いをどれだけ理解しているのだろうか

沖縄の方々の気持ちに寄り添いながら と言いながら

県民の民意をふみにじって まもなく海底調査に着手する



69年目の慰霊の日 東京の空



FUJIFILM X20
東京 青山
2014.6.23.撮影


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  1. 2014/06/23(月) 02:44:36|
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  3. | コメント:6
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コメント

いやな世の中です。

この人、ウチの親父の先輩にあたる人。 もし、戦争が長引いてれば我が親父も同じ想いをしたかも・・・ その前に原爆あびちゃって終わっちゃったけどね !? 沖縄戦 住民の隠れ場所強奪も
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=2935539
ウチの親父は、昭和20年春甲種合格現役招集で即、岩手から広島へ船舶通信隊に飛ばされました。(ラジオ屋さんでしたから)
終戦末期の内務班はそりゃあ酷い暴力の嵐だったそうです。
それがいやで、特別幹部候補生試験を受けて合格したらしいですが、もしそのまま本土決戦になってたら、見習い士官で最前線で確実に討ち死にだったことでしょう・・・
(なんでも、ヘルツやサイクルと言っただけで殴られたそうな。)
  1. 2014/06/24(火) 20:22:57 |
  2. URL |
  3. 楓ちゃん #-
  4. [ 編集 ]

楓ちゃん

楓ちゃん、コメントありがとうございます (^^)

お父さま、暁部隊に所属されていましたか。
駐屯地は宇品だったため、暁部隊のかたたちは、原爆投下後の救護活動に駆り出されて二次被曝を受けたかたも多かったと聞きます。
なかには比治山に駐屯していて被曝されたかたもいました。
いずれにしてもお父さまは、たいへんなご苦労をされたことでしょう。
昭和20年春甲種合格現役徴集とのことですから、19歳での入隊となり、年齢的にはむしろ下記のかたに近いと思います。
階級から類推して陸軍予備士官学校の出身のようですが、東北出身で同じ暁部隊であることから、お父さまも同じ経験をされたのではないでしょうか。
http://www.global-peace.go.jp/picture/detail_142_0.html

こうした戦争の記憶を心にしっかりと刻まれているかたが、つぎつぎと鬼籍にはいり、戦争の怖さを知らない政治家たちが増えたことで、困った時代になってしまいました。
戦争がはじまれば死ぬのは若者で、決めた側の人間は前線には出ませんから、人ごとのように決められるのでしょう。
どこかで止めないと、たいへんな事態になりそうです。
  1. 2014/06/26(木) 02:36:39 |
  2. URL |
  3. まこべえ #2XsKFzVg
  4. [ 編集 ]

Re: 船舶通信隊補充隊(暁第16710部隊)

はい、ウチの父はまさしく同じ部隊の兵隊でした。
この方の被爆体験は父とまったく同じです ! 父も眠くてこの日はベッと(下段) で寝ていたのでピカは直接受けませんでした。
でも「兵隊さんお水ちょうだい」のセリフは、何度父から直接聞かされたことか・・・
集団的自衛権の行使ががただ内閣の解釈変更で、できるなら憲法改正もいらないってことですよね。
この国は、中国とかシリアとか笑えないです。
サーカー負けるのも当たり前。

  1. 2014/06/27(金) 21:21:45 |
  2. URL |
  3. 楓ちゃん #-
  4. [ 編集 ]

楓ちゃん

楓ちゃん、コメントありがとうございます (^^)

お父さま、同じ部隊でしたか。
ベッドの下段に寝ていたことが幸いしたようですが、そのあとは言語に絶する辛い体験をされたことでしょう。
国に帰られてからも、青森ほどの空襲を受けなかったとはいえ、駅舎の姿や、空襲を受けた町の姿を見て、大きなショックを受けられたと思います。

楓村への空襲は、釜石の艦砲射撃の翌日でしたが、以前から不思議に思っているのは、なんで楓村が狙われたのか、という点。
実は、米軍が作成した180都市の空襲リスト(「中小工業都市地域への攻撃」1945.7.21.付け、第20航空軍司令部)に、楓村ははいっていないのです。
釜石は122番目にリストアップされていますが、空襲は受けませんでした(ちなみに盛岡は52番目で空襲なし、青森は42番目で空襲ありです)。
もちろんリストになくても、他都市を空襲した帰路に、余った爆弾を落としていくという事例があるので、リストも絶対的なものではありませんが、楓村の場合、グラマン15機の空襲を受けたそうで、最初から狙った空襲のようです。
もしかしたら、最初は釜石に向かったうものの、前日の艦砲射撃による被害が大きいとみて、攻撃地点をかえて、楓村に向かったのかもしれません
そうだとしたら、たまったものではありませんよね。

こうした大きな犠牲を払って手に入れた9条。
それを改憲手続きも踏まえずに、自分たちで勝手に、しかも都合よく解釈するとは、もう言語道断です。
イラク情勢如何によっては、自衛隊の若者が戦死する恐れが高くなってきましたが、誰かが死なないと、わからないのでしょうか。
いや、死んでも、自分たちが最前線に行くわけではないので、わからないかもしれませんね。
7月1日まで、あとわずか。ホントにイヤな時代になってきました。
  1. 2014/06/28(土) 21:37:34 |
  2. URL |
  3. まこべえ #2XsKFzVg
  4. [ 編集 ]

Re:連コメ

および誤字脱字コメント失礼いたしました。

楓村の空襲の件ですが、楓村近くには陸軍の後藤野飛行場というのがあり、釜石のついでにその飛行場を空襲したモノのうち
目標に達せなかった一部の航空機が駅施設を狙って空爆したものと聞いてます。

なお、空爆の成果はたいしたことがなかったものの昼時だったため街中で火を使っていた民家からの不始末により火災が発生。
空襲による避難等のため初期消火に失敗したため燃え広がり、市街地の多くを焼いてしまった。と私は聞いております m(_ _)m
  1. 2014/06/29(日) 21:15:14 |
  2. URL |
  3. 楓ちゃん #-
  4. [ 編集 ]

楓ちゃん

楓ちゃん、連投コメント、ありがとうございます(^^)

陸軍の後藤野飛行場は、最北の特攻基地として知られていますね。
この飛行場も釜石の攻撃部隊に空襲を受けていますが、それは8月9日のようで、楓村空襲の前日です。
その日の夕刻に九九双軽3機が特攻に飛び立ったようです。
楓村空襲は、もしかしたら前日の偵察と空襲のなかで決められたのかもしれませんね。
なお、民家の不始末による炎上という説ははじめて聞きましたが、宮澤清六の「兄のトランク」(ちくま文庫)によると、「町の中央に落下した爆弾から火災となった」とあります。
いま彼の実家が残っていたら、シゴハチの列車も観光列車としてさらに有効活用できたのに、とても残念ですね。
  1. 2014/06/29(日) 23:54:39 |
  2. URL |
  3. まこべえ #2XsKFzVg
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