光と風のなかへ & 追憶の鉄路

戦後70年 沖縄戦を読み直す






沖縄戦を戦った米軍の戦時記録 第10軍G2Reportを

日付を追いながら 改めて同日に読み直している

今年の沖縄はすでに梅雨が明けたが 当時はまだ梅雨のさなか

湿度も高く そのなかでの激しい戦闘記録がなまなましい

そのなかのほんの一部を 日付を追って引用しよう

ゆっくりと 文字を追うように 読んでほしい



沖縄戦

朝日新聞デジタル (戦後70年)沖縄戦より転載



6月10日 曇 気温67~80度(19.4~26.7℃) 湿度85~95%

死にもの狂いの日本人の抵抗が続く (略) 糸満を突破

日本軍の戦死者 6万8751人

捕虜 軍人669人 軍夫549人 保護住民15万9506人

米軍の戦死者 5188人 行方不明216人


6月11日 曇 気温73~84度(22.8~28.9℃) 湿度80~96%

小禄半島の日本軍は (略) 全力をあげて抵抗を続けている

日本軍の戦死者 7万2957人

捕虜 軍人731人 軍夫554人 保護住民16万8775人


6月12日 3/4曇 気温75~87度(23.9~30.6℃)

日本軍は小禄半島の重要丘陵地点から強力に抵抗

11~12日の夜間 多数の斬り込み攻撃

64人の戦死者の中に 女性が1人含まれる

日本軍の戦死者 7万4783人

捕虜 軍人816人 軍夫570人 保護住民15万7948人


6月13日 1/2~3/4曇 気温76~87度(24.4~30.6℃)

小禄半島の日本軍の組織的抵抗は全て終了

夜間 第7師団に対し強力な日本軍の反撃

各地の塹壕の日本軍は 米軍を寄せつけまいと必死の抵抗

日本兵集団が数回にわたって投降するところを

別の日本兵集団からの発砲を受けて投降できず

日本軍の戦死者 7万6452人

捕虜 軍人906人 軍夫574人 保護住民17万297人


6月14日 (天候 気温の記載なし)

日本軍がライフル 機関銃 迫撃砲で抵抗

単独兵が 米軍戦車隊の前進に対し命をかけて抵抗している

日本軍の洞窟と塹壕多数を破壊

日本軍の戦死者 7万7719人

捕虜 軍人953人 軍夫604人 保護住民17万3431人


6月15日 時々曇 気温76~84度(24.4~28.9℃) 湿度84~93%

国吉丘陵で猛烈な戦闘が続く  

日本軍は真栄里の丘と与座岳の陣地を固守

日本軍の戦死者 7万9180人

捕虜 軍人995人 軍夫622人 保護住民17万7249人


6月16日 1/2~3/4曇 気温76~84度(24.4~28.9℃)

国吉丘陵のほとんどの日本軍陣地を撃滅し 真栄里丘陵の北斜面に到達

日本軍の抵抗中心は与座岳 115高地 153高地である  

15~16日の夜間 斬り込み攻撃の結果 日本兵151人が戦死

米軍陣地前方で 手首を切ったり 喉を切ったり

手榴弾や爆雷の上に倒れて自殺した日本兵多数を発見

日本軍の戦死者 8万459人

捕虜 軍人1038人 軍夫642人 保護住民18万2046人


6月17日 時々曇 気温78~84度(25.6~28.9℃)

第7師団は戦車の拡声器を使い投降勧告

日本兵15人 軍夫60人 住民500~600人が投降

この大量投降は日本軍の組織的抵抗の破綻を示す初めての兆候である

日本軍の戦死者 8万2040人

捕虜 軍人1096人 軍夫730人 保護住民17万7992人


6月18日 1/2曇 気温77~86度(24.4~28.9℃) 湿度73~93%

全前線で順調に前進 (略) 夕刻には日本軍の抵抗は次第に下火になる  

午後2時50分 米須で日本兵と一緒に海に向かって逃げる多数の住民を発見

日本軍の戦死者 8万3492人

捕虜 軍人1157人 軍夫788人 保護住民18万1379人

(この日13:15 日本軍の砲撃により第10軍司令官バックナー中将戦死)


6月19日 曇 気温78~83度(25.6~28.3℃)

岩山の丘陵で抵抗する多数の孤立陣地を

戦車隊 火炎放射器班が次々破壊  

第3海兵軍団地区 師団左翼の日本軍の抵抗はまだかなり強力である
.
第24軍団地区 全前線で日本軍は自暴自棄の闘いを続ける

アメリカ軍は戦車に拡声器を乗せ 投降勧告

3000人以上の住民と106人の日本兵 238人の防衛隊が投降

真栄里で (略) 多数の住民が投降するためアメリカ軍前線に向かって進んでいる

日本軍の戦死者 8万6844人

捕虜 軍人1157人 軍夫788人 保護住民20万4371人


6月20日 1/2曇 気温75~84度(23.9~28.9℃) 湿度79~96%

各地に分散する多数の日本兵集団を撃滅  

日本軍は組織を失い死にもの狂いで抵抗するが 第24軍団は(略)前進

多数の住民が安全を求めて 師団前線に入ってくる

19~20日の夜間 日本兵122人が戦死

その中に 中佐1人 女性5人がおり 全て手榴弾で武装

日本軍の戦死者 9万401人

捕虜 軍人2480人 軍夫1273人 保護住民21万2066人


6月21日 曇 (気温 湿度の記載なし)

摩文仁と小渡も占領

昼間 住民が前線を通過できるようにと何度も戦闘を中断

住民の集団を調べてみると 常に日本兵が紛れ込んでいる

午後1時5分 沖縄の組織的抵抗は終了

現在 沖縄南部の日本軍の残存兵は分散した集団となっている

通信手段はなく 士気は低く 昼間動くこともできない

小規模の集団を除いて 集合することもできない

残存兵の多くは ゲリラに出るもよう   

日本軍の戦死者 9万4919人

捕虜 軍人3526人 軍夫1273人 保護住民21万2066人




沖縄戦

沖縄県立第二中学校(現那覇高校)裏側の大和人墓地帯での戦闘 (那覇市歴史博物館)



米軍の記録によると70年前の今日 沖縄の組織的な戦闘は終わった

Reportからも 17日頃から抵抗が弱体化していく様子が読み取れる

沖縄守備軍の第32軍司令官牛島中将が

組織的戦闘の終了を下達したのも 6月19日のことだった




沖縄戦

日本軍看護婦の死体
日本兵 軍医とともに日本軍のいる国吉に移動中だった彼女は
止まるよう命じられたが それでも逃げ 全員ヘンゲヘアー一等兵に射殺された
彼女が医薬品とともに持っていた投げ棒型手榴弾をかばんから引き出すヘンゲヘアー一等兵
彼女はライフルも所持していた  (沖縄公文書館 米海兵隊写真資料3 6月12日撮影)




かわって日本軍の手を離れた住民の投降が増えていく

地獄の戦場から生還した人々の姿を

米国陸軍省戦史編参部編集の『OKINAWA』は こう記す


六月の最後の二週間に 彼らは島の南端の洞窟から這いだしてきた

そのほとんどが子供か老人 あるいは女の人で

五体満足な男の人はごく少数だった

彼らは長い隊列をつくって 前線の後方へ歩いて行った

女の人はたいてい赤児を背に 衣類を束ねたものや 食料品

食器類 鍋釜など 持てるだけの財産を頭にのせて とぼとぼと歩いてきた

そして 途中で見つけしだい 砂糖キビを噛んでいた

そのほかにも幾千という民間人の死体が 溝の中 キビ畑 荒廃した村落内に散乱し

あるいは壕の中に そのまま入口を密封されて生き埋めになっていた

(米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』光人社より)




沖縄戦 白旗の少女(比嘉富子)
 
白旗の少女(老夫婦から命の大切さを教えられ投降する比嘉富子さん) 6月25日撮影



平和国家のブランドを捨て「戦争ができる国」に向かう日本

だからこそ いま「沖縄戦」にこだわりたい



月 桃  




六月二十三日待たず 月桃の花 散りました
長い長い 煙たなびく ふるさとの夏

沖縄戦を描いた映画「GAMA 月桃の花」の挿入歌


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テーマ:写真日記 - ジャンル:写真

  1. 2015/06/21(日) 14:29:13|
  2. カメラ日記
  3. | コメント:4
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コメント

沖縄

沖縄に初めて行ったのは10年程前。
仕事でしたが、一日は自由な時間がとれたので、ひめゆりの塔や、慰霊碑等を訪問しました。
その時感じたのは、「戦争をしてはいけない」
原爆ドームを見ても同じことを感じました。
一部に、そう感じない人がいるのが残念ですね。
参考人の意見に耳を貸さないなら、参考人を呼ぶ必要もないし、参考人の意見の都合のよい所だけを採用するという姿勢は如何なものでしょうか。
だいたい憲法の解釈を勝手に変更されるのもこまったもので、いまの安部政権は民主党の大失政と、景気を期待したことによる票でしかない、つまり、あんたは景気を良くすることに全力を注げばいいんですよ。
  1. 2015/06/21(日) 19:57:36 |
  2. URL |
  3. 枯れ鉄 #-
  4. [ 編集 ]

こんばんは。

私の母方の祖父は沖縄戦に行く途中、海上で亡くなりました。
母の話によると、海ですから遺骨などありません、小さな箱の中に入っていたものは骨ではなく、甘蔗の葉が1枚入っていただけだったそうです。
10年も前になるでしょうか、ウォークで沖縄を訪れた時に平和の礎を見ました。
和歌山県の戦没者に祖父の名前を見つけました。 自然と涙が出てきました。
ここで皆さんと一緒に祀っていただいて、ある意味幸せだったかもしれませんが、残された者はいつまでも背負い続けるものがあります。
どんなことがあっても戦争に加わってはいけないと思います。
中途半端な文章ですみません。 思いは解っていただけるかと思います。
  1. 2015/06/21(日) 20:29:38 |
  2. URL |
  3. 庵 #-
  4. [ 編集 ]

枯れ鉄さんへ

枯れ鉄さん、コメントありがとうございます。

戦後70年。戦争の記憶が薄れゆくなか、政権は右寄りに大きく梶を切り、これまでならブレーキ役をはたす自民党のハト派も黙り込んで、ホントに困った事態になってきました。
景気対策、震災復興、原発対策など、急ぐべきことが山ほどあるのに、戦争法案の成立ばかりに熱中し、憲法違反だと言われても、聞く耳持たず。
第一次世界大戦後、ドイツの国民は、生活の困窮とベルサイユ体制への不満から、ヒトラーを生み出してしまいましたが、21世紀の日本は、経済的な逼塞状況のなかで、似たような人間を作り出してしまいました。
国民が作り出したのですがら、今度は国民がそれを止めなければならないのですが、かつての安保闘争のような盛り上がりまでには至っておらず、政権にとっては、批判の声など、脅威にも感じていないのでしょう。
このため戦争法案の行方は、正直厳しいものがありますが、驕りがあれば、さきの参考人招致問題のように、また油断や失態も出てくるもの。
さらに国民の反発がもつと強まれば、萎縮しているマスコミも態度を変えざるをえず、潮目が代わる可能性もゼロではありません。
このため最後まであきらめず、なんとか廃案に持ち込みたいものです。

しかし、安倍は形勢が悪くなってきたら、一発逆転を狙って解散・総選挙に持ち込むかもしれませんね。
そうなると、いまの民主党では勝ち目がないので、状況はさらに厳しくなるかな。
それでも国民規模で反対の声をあげ続けていくしかありませんね。




  1. 2015/06/21(日) 23:15:46 |
  2. URL |
  3. まこべえ #2XsKFzVg
  4. [ 編集 ]

庵ちゃんへ

庵ちゃん、こんばんは。コメントありがとうございます。

おじいさま、沖縄戦に向かう途中で海没されましたか。
お話の内容からうかがうと、1945年3月に沖縄を守る第32軍の増援部隊として派遣されながら、その航海中に米軍によってつぎつぎと沈められた輸送船のどれかに乗船されていたのでしょう。
軍としては、沖縄の特産でもあった甘蔗の葉を入れることで、沖縄で戦死されたことを告げたのでしょうが、遺骨もないまま戦死公報(正確には死亡告知書)を受け取られたお母さまやご家族のみなさまは、さぞや悲しい思いをされたことと思います。
それでも平和の礎にお名前が刻まれたことで、おじいさまも、ようやく仲間たちと一緒に沖縄にたどり着けたと安堵されているのではないでしょうか。

ただ、太平洋戦争では、庵ちゃんのおじいさまのように、移動中に輸送船が沈められ海没されたかたは、40万人前後に及ぶと考えられています。
支配者は、いつも国のためと言って、戦争を正当化しますが、ひとつの命には、たくさんの人の思いがあること、そして残された家族は、その思いをずっと背負っていかなければならないことをしっかりと胆に銘じて、憲法を遵守し、政治をとってもらわないと困りますね。
庵ちゃんの思い、十分に伝わりました。
  1. 2015/06/22(月) 00:29:37 |
  2. URL |
  3. まこべえ #2XsKFzVg
  4. [ 編集 ]

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