光と風のなかへ

追憶の鉄路 特別編 時が止まっ日






1975年(昭和50)12月24日21時10分 夕張

明治の開業以来 日本中を走りまわってきた蒸気機関車が

最後の貨物列車を牽引して長い汽笛とともに発車した

列車番号6788レ 牽引機 D51 241

それは蒸気を追いかけてきた多くの若者たちの

青春の輝きが燃え尽きた時でもあった


思い起こせば 蒸気を追いかけはじめたのは中学1年のときだった

大宮機関区を起点に 佐倉機関区 八高線 川越線 総武本線をへて

中学2年の夏休みには単身で九州に ついで真冬の北海道に渡った

それからというもの 学校が休みの間は いつも蒸気と共にいた

授業中も ノートの片隅に次の撮影プランを綴っていた

終業式が終わると すぐにアルミのカメラバックとショイコを背負い

三脚をかかえて蒸気機関車を追いかけて北へ南へ

安い周遊券を買い 宿泊はいつも駅の待合室か夜行列車

若さゆえに出来た 無謀な旅だった

そのなかで出会った素晴らしき蒸気機関車たち


C62の重連で北の大地を驀進する急行「ニセコ」

その勇姿を求めて 何度 北の大地に渡っただろうか

「ニセコ」とともに過ごした日々 それはぼくの青春だった



蒸気機関車 函館本線

函館本線 急行「ニセコ」3号 103レ 1971年(昭和46)3月25日 撮影



たちのぼる煙 山々に響くドラフト

キューロクがいた冬の常紋は ぼくらの心を惹きつけて離さなかった




蒸気機関車 石北本線

石北本線 金華~常紋信号所 1970年(昭和45)12月28日 撮影




機関車中心の構図に変化が生まれたのはいつからだろう

日常のなかの鉄道 それがいつしかぼくの大切なテーマになってたいた




蒸気機関車 留萌本線

留萌本線 増毛 1974年(昭和49)4月1日 撮影



美利河 と書いて ピリカとよむ

その美しい響きに誘われて降り立った 春まだ遠き北の大地




蒸気機関車 瀬棚線

瀬棚線 美利河~花石 1974年(昭和49)3月21日 撮影



海からの風を受けながら ただひたすら汽車がくるのを待った五能線の冬

その寒さは厳冬期の北海道よりも厳しかった




蒸気機関車 五能線

五能線 1971年(昭和46)1月5日 撮影



汽笛も凍る吹雪の花輪線 龍が森の冬

機材も腕も未熟だった中学生には 三重連はうまく撮れなかった




蒸気機関車 花輪線

花輪線 龍が森 1970年(昭和45)12月下旬 撮影



だから 翌年の秋 もう一度 彼らに会いに行った




蒸気機関車 花輪線

花輪線 龍ヶ森 1971年(昭和46)9月24日 撮影




豪雪地帯を走る米坂線は猛吹雪

雪だるまになって汽車が来るのを待った




蒸気機関車 米坂線

米坂線 宇津峠 1971年(昭和46)1月6日 撮影




秋色に染まった山々

その間をぬうように汽車がゆく 会津の秋 日本の秋




蒸気機関車 会津線

会津線 会津宮下~早戸 1973年(昭和48)11月7日 撮影




日曜日になるたびに通った八高線

そこはぼくのカメラの修行の場でもあった




蒸気機関車 八高線

八高線 金子~東飯能 1969年 撮影



小淵沢の大カーブをゆっくり登ってきた高原のポニー

彼らに会いに何度 新宿からの夜行列車に乗っただろうか




蒸気機関車 小海線

小海線 小淵沢~甲斐小泉 1972年(昭和47)5月7日 撮影





美しい瀬戸内海の海をながめがら汽車を待った日

まさかこの沿線が30年後に大切な仕事場になるとは

10代の頃はは思いもつかなかった




蒸気機関車 呉線

呉線 安芸川尻~仁方 1969年(昭和44)夏 撮影



はじめての九州 そこはまだ煙が何本もたちのぼる蒸気天国だった

ぼくは父に借りたカメラで夢中で写真を撮りまくった




蒸気機関車 若松機関区

若松機関区 1969年(昭和44)8月 撮影



雄大な大畑ループを 補機の力をかりながら一歩一歩

大地を踏み固めるようにのぼってきた蒸気機関車たち




蒸気機関車 肥薩線

肥薩線 大畑~矢岳 1970年(昭和45)夏 撮影



渾身の力をふりしぼって峠にのぞむその姿は

いつも心の支えだった


彼らが現役から退いて きょうで40年

銀箱をかついでいたスリムな少年も

いつのまにかおなかが出たおじさんになってしまった

それでも彼らたちは いまも心のなかで走り続けている 

すばらしき蒸気機関車たち


最終列車の見送りは 行くか行くまいか ぎりぎりまで迷った

おそらくたいへんな人出だ 静かに想い出にひたる余韻などないだろう

なにより最後の汽笛を聞くことが とてもつらかった

そんな複雑な想いから 海を渡らなかった 

蒸気の時代が終わることを認めたくなかったのだろう

だから最後の汽車の写真はない

ぼくにとって北の大地を走る最後の機関車は

留萌本線のD61となった




蒸気機関車 留萌本線

D61 4 留萌本線 峠下~恵比島 1974年(昭和49)4月1日 撮影



そのかわりぼくが撮影してきた数多くの写真のなかから

集大成ともいうべき一枚を紹介しよう


田川線伊田駅で停車中の29692のキャブで

業務日誌を記録する機関士を写した一枚だ




蒸気機関車 田川線

田川線 伊田駅 1974年(昭和49)12月2日 撮影



ぼくらの青春が輝けたのも 鉄道を動かし守ってきた

たくさんの機関士をはじめ 国鉄職員がいたからだ

このあたり前のことに気がついてからは

機関士や駅員を意識して撮影してきた


蒸気が牽引する最後の列車が走った40年後の今日

あらためて当時 お世話になった国鉄職員のおじさんたちに

感謝の気持ちを込めて この一枚を送りたい






谷村新司 「花束 -最後の汽笛-」  汽笛が鳴ったあとにも歌は続きます



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テーマ:鉄道写真 - ジャンル:写真

  1. 2015/12/24(木) 21:10:00|
  2. 追憶の鉄路 9600
  3. | コメント:7
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コメント

追憶の鉄路

まこべえさん、ちょっと遅れのメリークリスマスです。

名場面集、目の保養になりました。
現役蒸気を代表する名所の数々ですね。
蒸気が好きなのか、旅が好きなのか、写真が好きなのか。全部なんでしょうね。
ただ、きっかけとなったのは間違いなく蒸気です。全ての原点はやはり八高線なのでしょう。
打ち込めることがあることは、とても大切なことです。そんな意味でも蒸気には感謝です。

小生的には、何の迷いもなく、増毛、美利河、伊田の3作です。
こういうのが100枚から200枚あれば、素晴らしい写真集が出来上がると思いますよ。
  1. 2015/12/26(土) 02:01:35 |
  2. URL |
  3. こあらま #YeXjZIOI
  4. [ 編集 ]

こあらまさんへ

こあらまさん、コメントありがとうございます (^^)

今年は、カマたちが現役を退いてから、ちょうど40年。
このため「追憶の鉄路」を特別編に編成し、これまでアップした写真をやや大きく伸ばして再掲しながら、青春の旅路をふりかえってみました。
蒸気とすごした7年間は、自分の人生のなかで、もっとも充実していた時期だったと思います。
その旅のなかで学んだ数多くの事柄や経験は、いまも大切な宝物として自分のなかで生かされています。
その意味でも、蒸気には感謝です。そしてそんな放浪の旅を許してくれた両親にも感謝です。

思い起こせば、自分の原点は、自宅の近くを走っていた山手の貨物線だったと思います。
幼いとき、ぐずっていても、電気機関車が来ると、ぴたっと泣き止んだと、母親がよく言っていました。
力強く長い貨物を引っ張る機関車に、たくましさを感じていたのでしょう。
そのためか、小学生の頃は、父に買ってもらったフジペットで、電気機関車の写真ばかりを撮っていました。
旅が好きなのも、小学生の頃、父にいろいろなところに連れていってもらったことが影響しているのでしょう。
こうした下地があったからこそ、蒸気と出会って、写真も、旅も、いっきに関心を強めていったのだと思います。

ただ、はじめの頃は、カメラも、フジカハーフ。
その後、父のミノルタ35、ついでミノルタSR1を使わせてもらいましたが、いずれも露出計はなし。
このため、セコニックの安い露出計を買いましたが、雪景色のなかでは、オーバー気味の写真が多く、粒子も荒れて、いまひとつな写真ばかりになってしまいました。
その後、高校生になって、キヤノンFTを使いはじめ、少しずつ写真の腕も上達し、ようやく見られる写真が多く撮れるようになりました。
こあらまさんに気に入っていただけた、増毛・美利河・伊田の三枚も、みな1974年の撮影です。
このうち増毛と、今回はじめてアップした伊田のカットは、自分のなかでも代表作だと思っている写真なので、気に入ってくださって、とても嬉しいです。
おっしゃるように、こんな写真が100枚、200枚も撮れていたら、写真集が出来るかもしれませんが、実際はごくわずか。
あと1年ほど早く生まれていたら、もう少し量産できたかもしれませんが、大木さんや広田さんたちの写真をまねしながら、そのあとをついてきたものにとっては、これがいっぱいいっぱいです。
それでもいつか、自分や家族用に、私製の小さな写真集が作れたらいいなあと思っています。

それにしても、少年時代の写真をネットに公開し、それがきっかけで同じカマを追いかけていた同世代の仲間たちと交流がもてるとは、良い時代になりました。
これからも、未公開写真をアップしていきますので、「追憶の鉄路」をよろしくお願いいたします。
  1. 2015/12/26(土) 15:14:23 |
  2. URL |
  3. まこべえ #2XsKFzVg
  4. [ 編集 ]

まこべえさん お久しぶりです。
早くも40年が過ぎました!
その節目の時期に、まこべえさんの素晴らしい写真の数々にお目にかかれて幸せです。
伊田駅の写真はまさにグッとくるものがあります!

> 蒸気の時代が終わることを認めたくなかったのだろう
> だから最後の汽車の写真はない
その気持ちよくわかります。
自分は最終日とその前日に夕張線にいました。ただ、最期を見届けることなくひとつ前の蒸機で見納めにしました。
その時の感情も含めた記録を「国鉄時代」の今号に「夕張線別れの十三里」と題して6ページで載せていただきました。ご笑覧いただけると幸いです。

小淵沢大カーブと同日に自分は最高地点前の境川橋梁を見下ろす俯瞰をしていました。そのカットも国鉄時代38号に連載6回目として載っています。
場所とスタイルこそ違え蒸機への熱い思いは同じですよね。
  1. 2015/12/26(土) 16:37:34 |
  2. URL |
  3. あらさん #-
  4. [ 編集 ]

あらさんへ

あらさん、お久しぶりです。コメントありがとうございます (^^)

蒸気牽引による最後の定期列車が発車してから、40年。
長いようでいて、ふりかえれば、あっという間の40年でしたね。
その間、さまざまな事がありましたが、蒸気と共にすごした日は、いまも鮮明に心に焼きついています。
それだけ、一日一日の時間が充実していたのでしょう。

そんな私が最後に行き着いたテーマが、伊田駅の写真です。
撮影日は、1974年12月2日、まさに九州の蒸気が終焉を迎える直前です。
大学の授業をさぼっての撮影旅行でしたが、キャブに乗せてもらい、このカットが撮れたことが、この旅の大きな成果でした。
そんな思い入れのある写真を気に入ってくださり、とても嬉しいです。

ただ、蒸気への思いがつのるほど、最後の汽笛は、聞きたくなかった。
これで、終わりだ、という思いにひたりたくなかったのも事実。
このため、最後の夕張は行きませんでしたが、あらさんも、その手前でやめたとのこと。
おそらく私と同じようなお気持ちだったのでしょう。
そのときの記録を「国鉄時代」にまとめられたとのことで、これはぜひとも拝見しなくては!
ましてや今月号には、ニセコと夕張のDVDもついていたはずなので、立ち読みではなく、自宅に持ち帰って、ゆっくりとながめながら、当時の空気を味わいたいと思います。

ところで、あらさんは、何度か「国鉄時代」に登場されていますが、編集長の名取さんとはコンタクトがとれますか。
もし、とられることがあったら、名取さんの名著『編集長敬白』の最終章「32年前の今日へ」に何度も登場する立教ボーイは、いまも鉄を追いかけているとお伝えください。
いつか機会があれば、また再会したいと思っています。
あらさんも、たまには、またこうしてコメントをくださると、とてもうれしいです。
  1. 2015/12/26(土) 23:36:47 |
  2. URL |
  3. まこべえ #2XsKFzVg
  4. [ 編集 ]

十三里では

まこべえさん 「国鉄時代」ぜひお読みください。
ここに書いた最終日の十三里での「じゃまだよ」事件はあり得ないことでした。
この主は一年後に判明し、再会するのですが、なんと「くろくま」さんでした!
何とも衝撃の出会いがこの日に起きていたのです。
蒸機はいろんな繋がりをつくってくれました。まこべえさんもその一人ですね。
  1. 2015/12/29(火) 14:04:25 |
  2. URL |
  3. あらさん #-
  4. [ 編集 ]

あらさんへ

あらさん、返信コメントありがとうございます (^^)

『国鉄時代』、読みましたよ! いまここにあります。 
あらさんが最後に記した「凍えながらひたすら待ったこと」以下に書かれた想いは、まさにあのころの自分です。
とくに「できるだけ自分の目に焼き付けようと、ファインダー越しではなく肉眼でその姿を追う」という想いも全く同じ。
蒸気が青春だった人は、みな同じような想いだったんだなあと、改めて当時を懐かしく思い出しながら、読ませていただきました。

P61の仲間たちを入れた駅撮りや、広田さんのp24・p29・p33のような仲間たちを撮影した写真は、当時は撮ろうという発想じたいがありませんでしたが(フィルムももったいなかったし)、いま振り返ってみると、こうしたカットも撮っておくべだったと悔やまれます。
ある意味、時代をよくあらわしているので、記録写真としては、数ある蒸気の写真以上に、貴重なカットになりましたね。

ちなみに、私が北の大地で最後に見送った機関車は、このブログにものせた留萌本線の1792レでした。
この日は、名取さんと行動を共にしていたので、名取さんの本のp196にのっているむ写真と、同じ場所で写しています。
構図を見ると、名取さんより、やや左側あたりにカメラを設置していたようです。

あれから40年。
『国鉄時代の後書きに山下編集長が書かれているように、青春まっただ中の若者たちも、定年が迫る年齢になってきました。
しかし、長い年月をへて、同じ世界で、同じカマを追いかけていた人々と、またこうして「再会」できることは、とても幸せなことだと思います。
それにしても、「邪魔だよ~!」が、くろくまさんだったとは、びっくりですね。
人が行かない、しかもさらに高みから最後の汽車を狙っていたとは、さすが、くろくまさんですが、それを記事にされたところをみると、なんでこんな場所にいるんだあ~という思いが、40年たっても消えずに強く残っていたのでしょう(^^)
若かりし頃のくろくまさんの一声、きっと50年たっても、耳に残っているかもしれませんね(^^)
蒸気を通してつながった出会い、これからも大切にしたいと思います。
懐かしい記事と写真、ありがとうございました。

  1. 2015/12/30(水) 18:02:07 |
  2. URL |
  3. まこべえ #2XsKFzVg
  4. [ 編集 ]

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  1. 2015/12/31(木) 14:43:02 |
  2. |
  3. #
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